車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

臙脂

昨日ブログを書くのを忘れていたわけだが、別に毎日書くとは宣言していないのにも関わらず今まで毎日書いていた為か、そうしなくてはならないという強迫観念に駆られていた気がする。適当に頑張ろう。気楽に書こう。


僕はここで五感を語る事が多い。周りの環境に対して他より強く意識を持っているのだ。その分自分について語る事が少ない。写真に見惚れる事はあれどカメラを愛でる事は殆どないのと同じ事だ。しかしここで思うのは、写真を見て「これは良いカメラを使っている」と笑みを溢す人間は撮影に非常に親しんでいる事だ。


もっと自意識を持とう。そしてカメラにまで神経を向けて広く世界を味わおう。そう強く心に誓った。今は冬の兆しが訪れる頃だと相場が決まっているが、辺りを見れば急激な気温差で体調を崩すものばかりだ。かくいう僕も文にキレがない。スランプと一丁前に振る舞える程僕の技量は冴えていないし自惚れてもいない。だがこの現状はまずい。とりあえず、煎茶を飲もう。


夜の帳が降りる頃、街灯に負け星が薄れていく空を見て思い出した。夏祭り、散歩をしていた時にふと目に留まったりんご飴。その紅さに顔がふやけた記憶だ。あの艶やかな表面、深い臙脂色に閉じ込められた小振りの蜜晶が涎を誘う。齧る事に躊躇いすら見せるそれに死を感じたのは僕だけのはずだ。


食べれば白亜の果肉が晒される事は明白だが、それは周りの飴とはコントラスト以前に調和するとは限らない。酸化し、形を変えていくそれはまさに時間そのものだ。この完成された檻の空間とは雰囲気を異にする。内包されたその甘味、酸味は想像の中で膨れ上がるばかりで、食欲に似た贄を貪る悪魔の思考が僕の舌を掻きむしる。その飴を一口。時間は動き出してしまった。


溝鼠の空を見てその一時に想い巡らせたのは自分の中に根付いた灼熱の情、移入する目に我ながら怖れすら感じているからだ。十人十色、世界は見るものに見る価値を与え、パレットからそれぞれに違う色を分け与えると知っている。それにしても何という事か。僕の見る世界は悲哀、学術の戯れ、脳みそばかりが肥大した最低のサイボーグマシンではないか。こう自虐を書き記した僕は皮肉めいた笑いを吸った。


あの時、りんご飴には僕はどう見えていたのだろうか。あの臙脂色はどこを見据えていたのか。齧られ、存在という枠が消えていく中で解放され、何を得たのか。教えてくれ。