車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

煎餅

焼香と称した朝、燻る午後への期待を横目にカラスは木々を飛び回り内輪話に興じている。曙の紫は深く、空から生い茂った雲が芍薬を想起させる。とはいえ、この時間を僕は怠惰に過ごし、貪り、費やしてしまう。遣る瀬無さは峠を越した。

 

 

煎餅の固さは『生』の実感に繋がった。奥歯に感じる米の甘さと醤油のコク。炙る火の熱さがこの一瞬を作る為に彼方に消えたとしたら、僕は今、時間を食み、血肉を望む事になる。推測だが、実際そうなのだろう。僕はそうやって今まで暮らしてきた。愚かにも、人間とは誰かから時間を奪い、奪われていくものなのだ。

 

 

奪われた時間か。僕はコーヒーを片手に窓の外を眺める。殺気だった車の群れが近付いてくる。営み、一日、人生、宇宙。代謝される時間の渦の中、僕は煎餅を食べているんだ。僕は恵まれている。袋に残った煎餅の残りカスを口に流し込み、噎せた。ああ、生きているんだ。何て気持ち良い。

 

 

そうだ、昔の話だ。僕は昔の話を思い出して、ここに書く事にしたんだ。そう、子供の頃の話だ。幼い頃、僕は放課後はふれあいスクールらしき施設で勉強をしたり遊んだりしていた。玩具を使っておままごとをしたりブロックで何かを作ったり、粘土を捏ねて楽しんだり......遊びの事ばかり思い出すが。

その中でも、特に印象深い出来事があった。

 

 

僕は発明をした。お洒落の大発明だ。僕は突如ズボンのポケットの上部分とベルトラインに穴開けパンチで穴を開けた。そこにプラスチックリングを鎖の様に繋げて通したのだ。僕はこれはお洒落だと色々な人に自慢した。母に自慢した時、母は僕に才能があると確信したらしい。僕はその頃、ウォレットチェーンを見た事もなく、知らなかった。僕にとっては発明だったが、母にとっては僕がファッションに目覚めたと思ったのだろう。まぁ今となっては笑い話だが。不覚にも現在のファッションセンスは尖りに尖ってしまった。昔の母は僕が黒い服しか着なくなるとは到底想像も出来ないだろう。

 

 

子供の頃は楽しかった。何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。それは、養われ、育まれた証なのだが、僕はその価値に気付けず今こうしてコーヒーを飲んでいるのだ。

今の僕は恵まれている。だが人間の欲望に際限はない。

 

 

僕はあの頃の自分が羨ましくてならない。無垢とは名ばかりだが純粋に物事を楽しむ目を持っていた。今の僕は知識や常識、歪曲した価値観に風景を破壊されている。何事にも得ると同時に失うものがあるのだ。友人と遊ぶだけで楽しかった。今友人と遊んでも、『何をするか』ばかりを考え、純粋に時間を楽しめていない気がする。情報に舌が肥えてしまったのだ。滑稽だが、その分僕は聡明になれた。

 

 

また溜息だ。文豪もこの朝に溜息を溢したとしても僕より余程艶美で優麗な事を考えていたのだろう。いや、もっと獣臭く泥の様な思考だったのかもしれない。

推測、また推測だ。今の僕なら哲学者も拍手を送ってくれるかもしれない。

 

 

代謝される時間。老廃物は弔われ、忘却の中、船を漕ぐ。泥に浮かぶ船、どこへ向かい、何をするのかは分からない。人間は、目的がないと生きられない。だから漕ぎ、泳ぎ、進む。

後頭部に目がない事が幸いし、進む足は止まらない。

僕は、煎餅の袋を捨てて、朝を始める事にした。