車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

過川

得ると同時に失う。失うと同時に得る。
正負の法則?代償の法則?真理を知った様に述べたとて偉い訳ではない。世の理を論じて学者の椅子に腰を掛けたければ、バーカウンターにでも行くが良い。身の丈にも合わず背伸びしたカウンターチェアがお似合いだろう。ロシア文学の様な文句を並べ立てても現代に生きる自分の空虚さは際立つばかりだ。

 

この汚泥に塗れた心を津々浦々投げられる場所はこのブログの他にないと宣言しよう。だからといってこのサイトにそういった役割を施して、精神的負荷が掛かると文を書きにやって来る、という訳ではない。負の感情、負の言葉が僕を動かし、綴る作業へ誘うのだ。浅ましくも、吐露しつつ何処かで魅せる気持ちを忘れていない。


今日は苦しかった。『心』というものを考える事は哲学ゾンビを生み出す行為である事は重々承知していた。

幸福を求める事は愚かだ。

片道切符を握った人間が勇ましく、十字軍を気取ってより良い世界を望む。切符を握った事に喜び、帰りを忘れてしまうのだ。未来に目を向けず目の"後"の過去を見て評価する。

焚き火を囲い酒灼けた声で笑う人々。
幸福を求めず、探さず、追わずに拾う。そんな生き方が出来る程、皆器用じゃない。分かってはいた。

 

人は愚痴りに行く場所を求め、サービスを提供する店へと足を運ぶ。その鈍重な足によって響く地の気持ちも知らず、酒は脳を痺れさせるものとして胃へと流される。嗜みなんて言葉は余裕のある人間が使うもので、そういった拠り所を浮つかせたまま惰眠を貪るというのは些か罪悪感に苛まれるものだ。文はより自虐的に、複雑さを増して電子の海へと届けられていく。

500文字以上書いたにも関わらず、それらが何故書かれたのか、苦しさの理由も、幸福を嗤う意味も明記せずに講釈を垂れている。

 

なので、そろそろ構造の解明に移ろうと思う。

 

お喋りは程々に言葉のシンプルさを忘れてきた人間からの脱却を図ろう。僕のこの憤りの原因は青さ故の色恋への惑いから来ている。

この惑いが誰かから来ているのであればどれ程の幸せだったか。

僕は恋愛が出来ないと思っている。故にアプローチがない。一定数、距離を取った博愛を行い、一歩退いた隅で笑っている。卒業生を送り出す在校生の列の様な、祝いを装う残酷な時間だ。真に祝う者達が集う時はいつも、規模の小さいものであって、人が増えれば増える程その心量は減っていく。

 

恋は長所を好むもので、愛は短所も好むものだと誰かが説いた。

その時に真っ先に「くだらない」と言葉が湧いた。しかし、それは僕が恋も愛も出来ないと勝手に諦め、決めつけていたからなのだ。

愛し方が分からない。真実はこうだ。性的指向も起因しているが、これは致命的だ。

 

愛する事が幸福になる事ではないと考える。愛が幸福になる為の何かを導く存在になり得ると、そう思う。

 

僕は変わらなくてはならない。負のエネルギーで生み出す事にも限界はある。鰹節の様に身を削っても長期的に面白いものは作れない。
僕というコンテンツが負で箔押しされるのは、あまりに稚拙だ。だからまず、愛を探す事から始めようと思う。
吹き溜まりにいる枯葉は周りのものばかりを見ては自分を評価してしまう。空には大きく伸びる木があって、日を浴びようとしているのにも関わらず、それにも気付かず地を滑り、時折渇いた笑いを溢す。

 

文を読むという事、それを避ける人間は、文そのものに『面倒臭さ』を覚えているという。文を書いてきた者として、その感情を抱える人間が増えてきた事について嘆きを持たずにはいられない。この文全てが僕の『認めて欲しい』という人間の根幹から湧き出る低俗な感情で書かれているとして、それを古池に投げて水面の反響を楽しむ事で収まる程、僕は表現者としての姿勢を低く評価していない。

 

僕は低俗だろうと、高尚だろうと、ただ書くだけなのだ。

生活や、能力の研鑽も一区切り。ここから終わり、そして始まる。源泉を振り返り、大海を望む。観測者はそれらの中間にある河川に向かい、文字の黒船で乗り込んでいくのだ。