車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

重箱

毎日何人か僕の稚拙な文を閲覧しているようで非常に喜ばしい。と、同時に向上心が湧き上がる。僕がこの筆を制御しているようで、その実逆なのかもしれないと最近思うようになったのだ。

 

 

書けば元気になる人間は物書きの職に向いているらしいが、僕の場合、書けば自分の影が灰汁のように出てくる。確かに疲れはしないが『書く』という行為が自分を痛めつける一本の針であるかのように着実に日常を蝕んでいる事を自覚せざるを得ない。それに対して嫌悪感を抱いてない時点で、僕を一般とカテゴライズするのは無理だろう。

 

 

碌に眠りもしなかった。後頭部を掻きながら僕は言葉と向き合っていた。僕が発する音が言葉として認識される為には発する側の『明瞭さ』が求めれられていて、受け取り側には『受信する姿勢』が必要だ。二つに共通して重要視されるのは『言葉の引き出し』だ。褒める、一反にそれを取って言っても簡単ではない。キャバレークラブの人々はその行為について研究をしている。人は上に立ちたがる。優位に持ち上げる褒めるという行為が如何に他の人間に効果的か未だに認知が薄いのが気がかりだ。

 

 

僕が足下、欲を言えば足を見ようとしているのは常に日常に疑いを持っているからだろう。悪く言えば臍曲がりの戯言だが、枠を疑う事は表現として常に重要視されてきた。その行為が変革をもたらし、適度に世界を変えてきたのだ。換気扇が回っている。流転は大き過ぎて稚拙な我々からは観測出来ない。

 

 

尚更、僕は日常の重箱の隅で暮らしていると感じる。周りにあるものは小道具で、僕は大袈裟に見栄を張る役者だ。皮肉なものだが、役者として振る舞っている。以前電車で床に座っている人間を発見し、注意した事があったのだが、何気なく言った一言が声量のせいか車内のほぼ全員を振り向かせてしまいエネルギーの調整ミスったなぁと思いながら、立ち上がり謝罪する人を見てその場を後にした。

 

 

今思えば自分がそう言葉を吐いた時、あの空間では僕と、『一般』に大きなキャズムが生まれていた。あそこでは僕は座っていた人間よりも異質に見えただろう。悔しいが、それが人間の目というものだ。

 

 

僕は前々から自己嫌悪のムーブをやめているのだが、このキャズムに対してはそのムーブをせざるを得ない。僕がした事は正しいが、それが正義かと問われると首を縦には振れない。僕はそういう人間だ。悲しきかな。ガタンゴトンと唸る重箱。その隅に僕は毎日入れられては見ず知らずの誰かと肌を寄せ合っている。おかしな話だ。その中で僕が人間の坩堝を見て笑っているのだから尚の事である。

 

 

僕は口笛が吹けない。口を上手に作れない。自分の体の事ですら満足に知り得ないのに他人の事など知り得るのか。