車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

無駄

無駄、その言葉は現社会において多用される傾向にある。その場面も様々で効率化を求めるムーブメント、雑談や悪あがき、惰性や過度な足し算の美学、二重敬語、政治家が行う無能采配。本当に様々だ。だが、ここに経験が入っている事に僕は異議を唱えたい。


実の所、僕は文を良く書くが、本を人並みより少し読む程度なのだ。これは執筆する人間にしては少な過ぎる。その分僕は辞書を読んでいる。詩や駄洒落、言語文化の分析を嗜んだ。後者に関しては文を書くという行為に対して直結するものではない。しかし、これを無駄と評するのは違う。確かに、やり始めた頃はこれが役に立つ等微塵も思っていなかった。だが、今それらは僕の文を彩る大切な画材となっている。


無駄について書いたが、これと最も親しみがある言葉は時間である。僕が今こうやってブログを書いている時間を、ある人間は無駄と説くが、僕は指を振り否定する。これを書いた事で少なくとも、僕の文章はブラッシュアップされた。初期の僕より一段、皆の『面白い』の琴線に近付けたと実感している。
最終的に、僕の文がその弦に触れて良い調べを響かせる事が出来れば御の字なのだが。


まぁ無駄な展望は良しとしよう。未熟者の僕がふんぞり返るのは読者から見ても好ましくないだろう。僕はいつも通り、拙い自分語りのサーカスを繰り広げよう。


僕は今日を無駄な日と思った事はない。と言ったら嘘になる。が、その日を幸せだと思える自分がいる。だから、洗練された無駄のない無駄なのだ。
僕は自分の創造力の糧として遺書を書く事にしている。過去の僕、死んだ後の僕、今の僕の心情を綴ると自分を見直せるのだ。
これは皆も試してみると良い。最初はかなり精神的に参ってしまい無駄だと思うかもしれないが、文の練習と自己分析を同時に行えて、創作活動に非常に刺激を与える機会になるだろう。