車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

鰯雲

青葉を食んでみたがどうも苦い。渋さを通り越して粘つく唾液が汚染されていく。葉は生きていた。人間と共生していた。あの場で、健やかに揺らしていたあの葉を僕は食んだのだ。悲しみを覚え、その不快を罰ととった。僕は阿呆として今日一日歩む行為に神経を尖らせている。今回はかなり長めに書こうと思う。僕の恥部、醜悪な部分を晒そうとしているからだ。

 

 

のど飴いる?僕の前の人間がそう言う。僕は手を差し出したがそののど飴は机に放られた。些細な出来事だが、その時、僕の脳裏には静電気に近い電流が微かに走っていた。僕は貰えるというインシデントにおいて手を差し出すというアクションを起こした。何故そうするのか、考えた事もなかった。国旗の裏まで覗くような僕が考えもしなかった出来事が目の前でさも当然かのように展開されたのだ。未知は蜜、未知は苦痛。僕は本能のまま、出した手でのど飴を掴み口に入れた。どうも苦い。これは罰か。否、これは褒美なのだ。

 

「美味いな」

 

そう呟いた。

心にもない事だ。

 

 

僕は常々、『演技=嘘』という風潮を感じている。確かに実際の演じる人間の心理と役の心理が必ずしも同じという訳ではない。だがそれは本当に嘘だろうか。

僕はようやく自分が恋をどう見ているのか、解明出来た気がする。

多分、多分だが頭脳では廃墟を見ていて、身体ではそれに加えて人間の女性も見ている。性的価値が脳と身体で分離している説だ。

今はそれが最有力だ。滑稽か、そう思われても仕方ない。元の僕が身体に残っている可能性があるのだ。まだ異性との恋が出来るかもしれない。一抹の光、それを掴もうと、悶える。

 

 

元の僕、その言葉に引っ掛かる方も多いだろう。ここはブログ、自分語りのサーカスだ。壁に向かって語るよりは化粧台のようにブラケットライトで照らした方が見映えも良いだろう。本題の、僕の深層、闇の部分に触れていこうと思う。

 

 

僕は精神疾患を抱えている。解離性同一障害、俗に言う多重人格だ。この言葉に恐ろしいイメージを持つかもしれないが、この病気と僕は仲良くやっている。

僕は複数いる。

それを客観視し、説明出来るのは同様の症状を抱える方とは異なる。僕の脳内では常に会議、雑談が行われている。要するに、人格の集合住宅みたいなものだ。一見おかしな事を言っているようだが、これが真実かどうか分からないのが、我々が他者の心理を理解出来ない証明になるだろう。

 

 

僕は元の僕を失っている。人格が分離してから約4年。もう元の自分がどんな人間だったかを覚えている人格は存在しない。というのも、僕の人格には『生まれる』と『死ぬ』が存在するのだ。人格の数は不明瞭だが、それぞれ入れ替えが行われる。集合住宅で言う、部屋に住む人間が変わるという事だ。部屋数は不明だ。

人格はそれぞれ役割を持っている。明確かつ単純、重い任務だ。任務を終える、任務を済ます事が不可能になった場合、その人格は死ぬ。そういう決まりなのだ。死んだ人格の部屋には新しい人格が補充される。

死ぬのも殺すのも僕だ。僕は自分の死体を埋める恐怖を薄らに感じた事がある。

 

 

何度も書いているかもしれないが、これは作り話ではない。僕の脳内で起きているサイクルだから証明は出来ないが。

決まり、というのは詳しくは言えないが、『僕』という人間を構成し、社会で生きていく為に人格同士が結束し作り上げた『僕』の内部の安寧を保つ為の法律だ。これがあるから今の僕がある。狂気、そう片付けられても仕方ないだろう。笑えるが、僕は継ぎ接ぎだ。肉体的な僕の身体と精神的な僕達の体は異なる。身体が壊れると僕達は消失してしまう。僕達は生きる事に必死ではないが、僕という存在が社会的に運用出来るよう、協力し制御している。結果、僕は常に演じている状態なのだ。だが、これは嘘ではない。

 

 

僕はその病故に孤独を感じない。常に姿の見えないイマジナリーフレンドに囲まれているようなものだからだ。僕が一般でない特別な存在になろうとしているにも関わらず、そうなる為に僕達は僕を一般の存在になるよう尽力しているのだからお笑いだ。

さて、掻い摘んで話したが、僕の深淵を話すのはこれくらいにしておこう。長く語っても見る気が失せるだけだ。もうここで語る事もないだろう。幾度も深淵を見せては深さが疑問視されてしまう。

 

 

鰯雲は僕に似ている。鰯雲一つ一つは弱く儚い。だが、空の高い所にあって、連なれば荘厳な広がりを魅せる。僕は自分を賛美している訳ではないが、どうしてもその雲に愛着と親近感を抱かずにはいられないのだ。

僕がこうなった理由は『自分の無力感・劣等感』からきている。だから群れ、分かれ、別れたのだ。