車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

食器

二択を外し続ける気持ちが理解できるだろうか。

僕の身体は自由が利かない。僕だけじゃない。それは分かっているが、運動の感覚、それのみならず認識においても不自由を抱えている。

左と右、その違いは何だろうか。何をもって左とするか、右とするか。僕は分からなくなる。文化的常識の範疇で左右が決まっていて、それに従っている。だが、夜の闇、机に突っ伏す僕を平衡感覚の崩壊が襲う。

 

 

利き手というもの。僕は箸やハサミを感覚的に握っている。そこに右も左もない。虹はどちらからどちらに向けてかかるのだろうか。そこに秩序が存在するようには思えない。と言うのも、それは人間が観測する上で、感覚で認識を行い、それに理論をはめているだけなのだから。不思議な話だ。

 

 

踏切の赤が交互に明滅する。瞬きはこうして景色と闇の幕との交差が行われていて、僕達は闇の幕に対して一切の意識を向けない。目を閉じるという行為によって初めてそれを認知するのだ。肘笠雨が僕を襲い、近くの食器店に僕は吸い寄せられた。ショーウィンドウの照り返しに絆されて眺めてみると、そこには白亜の磁器が微笑みを湛え待っていた。

 

 

その中の一つに、僕は目を奪われた。新緑とは名高い言葉である事は知っていた。それ程までに美しい葉を僕は見た事がなかったのだ。透き通るような翡翠の葉脈が単の雪原に命を灯し、円形の磁器が艶やかに鎮座しているのだ。円に方向はない。僕は抱擁の温かみを帯びたその器を購入していた。縁に這うように蔦と葉が通っていて、その凹凸が僕の皮膚を通って価値を伝えてくる。

 

 

箱に包装され、ビニールの手提げに入れられた可愛げのある食器は、僕のものになった。これから、彼は僕の家で時を過ごすのだ。出会いとは、唐突で、鮮明で、揺蕩としている。