車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

境界

ここは古巣だ。何年もここに来ていなかった。読み返すことすらせず、サイトURLだけが、フォルダの底にしまわれていた。

自分の過去の文を読み返し、改めて、自分の境遇の変化を感じる。様々なものに別れ、様々なものに出会った。まず、明らかに友人が減った。というのも、自分から離れた。明らかに言動がおかしくなっていた。自分だけが立ち止まり、プラスチック製の玩具を歪ませた時の表面が白んでいくあの様子、あの毎日が徐々に書く文、考える文、感じる文その全てから壊れて喪失の一途を辿っている。雨だ。雨は集合体で、総じて雨であって、降る雨粒一つ一つを見られるほど、目が冴えてはいない。自分の文章はそうなっていた。何かを書いてはいるが、何もないように見える。透明な、濡れた跡だけが、画面の中にゴシック体で残っていた。本当は生まれてからずっと、食事に薬を少しずつ盛られていて、徐々に身体を蝕んでいるのではないか。寝る度に毒を浴びていて、着実に正常性を失っているのではないか。そう考えるようになった。恐怖でなく、焦りだった。

世界は自分を攻撃している。穏やかな自責が続いた結果、弾けるような他責が生まれた。どちらも間違いだと思っている。どうすればいいのか、混迷の末にまた、自分は自分を騙すことを選んだのかもしれない。大袈裟かもしれないが、世界が本当に自分を溶かしてきた。苦痛の壺を抱えていたつもりが、いつの間にか裏返り、苦痛の壺に閉じ込められていたのだ。幻は意味を失った。

境遇の変化として、詩に出会った。自分を観測する自分の観測、本質の探求、感情の吐露......

その全てが緻密に文字に埋め込まれ、彩りを与えては夢を、延いては世界を語る。焼夷弾のように、徐々に魅力が自分に広がっていった。

自分の中の詩は、まだ始まってもいないと思う。まだ詩の自分と詩でない自分を分けている。生きる姿勢を自分に落とし込めていない。詩が浮わついている。こうして書いていても、時折、自分の字が歪み遊泳を始める。これも全て、世界が自分に仕掛けた、

最近、世界が自分である気もしている。自分が自分に攻撃している。

 

楽だ。自分は空虚だ。それにも限界がある。至る前に、滅ぶことをどこかで望んでいるのか。この文も、いつか辱めとして、苦笑いの中で迎えられる日が来るのだろうか。そうなる自分が見えない。器用になった自分が、寛容になった世界が。

今、暗い部屋で書いている。太陽が、たまに緑に見える。

これから、このサイトの更新を再開していこうと思っている。

呪泥

長らく、ここには来ていなかった。

この場所の存在を忘れていた人間も多いだろう。記憶は存在を固定し認知する方法として最も力の強いものだ。それを弱めるものは時間のみ。多くの時間をここから離れて注いでいた。

初期に書いたものに比べて、僕は健康とは言えなくなった。

夢を諦めた。

術を失った。

いつの間にか精神は毒され、身体の枷を強固にした。

何を求めて明日を探しているのか、もう分からない。ただ文を書いては意地汚く寝床に顔を埋めている。実に愚かだ。しかし、まだやり直せるとどこかで思っている。

恵まれてないとは思っていない。まだ自分は何かを成せると思っている。浅ましくも。

それが呪いとなって、背反する自我の綱となって心血を引き裂いてしまったのは悔やむべきなのか。必要な挫折なのか。

この世界は狭いようで広い、故に冷たい。

いつの間にか自分の精神疾患が悪化していた事に気付いたのは、またも自分だった。

何かがおかしい、何かが違う。こんな世界じゃない。

夢も現実も否定して逃げた妄想も制御できず、文章だけが無尽蔵に溢れ出して創作の奴隷と化している。

言葉が即座に脳の漠然としたイメージから形に出来るのは誇るべき能力だと以前まで思っていた。したくないものまで言葉になってしまうというのに、それを素晴らしい才だと、僕はその力を求めてひたすら書いた。

書いた。

書いた。

頭や目を掻いて、それでも書いた。

書いてその力を手にしたとして、何がしたかったのか、正直分からない。

ただ今もこうして、書いては吐く息を身体に戻そうとしている。意味もなく、益もないのに。

楽しさや、嬉しさ、そういったものはどこにもなかった。創る事が時間の中に自分を留める錨の役割をしていただけだ。それすらも自分の重荷になっていると知ってもなお、妄想の世界だけで生きてしまえば白い牢屋に飼い殺しにされるに違いない。だから足掻く為にも、「自分はこの世界に適合していなかった」と大声で叫んでいるのだ。くだらない。

いつの間にか毎日の様に妄想の世界と夢の世界と現実の世界を混在させた、異形の臓物の様な未知であるが既知である時間を過ごし始めていた。

苦しい日々だ。今もそうだ。何かに怯えている。突拍子もない行動を取ってしまう。上っ面を取り繕う事だけが巧くなっていく。下賎な埃虫に成り下がっていく。

 

 

ある日の深夜、僕は歯を磨いていて、何故かそのまま外に歩き出していた。裸足で外行きの格好もしないまま、幻に囚われた僕は歯を磨く事をやめられず徘徊を始めた。

僕は灯台を目指した。頂上には明るい食卓があって、そこへ辿り着くまでにアリの行進をいくつか潰さなくてはいけなかった。だから外へ出た。歯を磨く事が止められなかった理由は、その灯台へ行く条件が穢れを落とす事と懺悔の泥を吐く事で、それらを完遂しようと永続的に行っていたからだ。泥を吐くには吐く泥がいる。口の中を磨いてすすいで落とす行為をする事で、相対的に汚れの存在を口の中に固定出来るのだ。

外を歩いてしばらくすると雨が降ってきた。歯茎から血が出た頃だ。濡れたタイル張りの橋の上で口から出た血で地面に文字を書く事にした。灯台は近い。そう思った。

結局明け方まで泣きながら許しを乞いていた。灯台には辿り着いたが食卓に着くには身が冷え切っていたのだ。実際は橋の上にいたと思うが、その時は完全に妄想の朝に飛び込んでいた。灯台はたまに身じろぎをする。辺りに広がる煙を払う為かもしれない。その揺れが身体を伝っていると思った。実際は雨で濡れた寒さで体温が下がっていたのだと思う。歯ブラシは鮮血で染まっていた。もう磨きはしなかった。ただただ寂しかった。

ふと辺りを見渡すと、橋に戻っていた。地面に書いたはずの血も残っていない。きっとこの雨で流されてしまったのだと、だからここに帰ったのだと毛羽立った血染めの歯ブラシを投げ捨てて家に戻った。踵には小石が刺さっていた。痛みは、帰るまで感じなかった。

 

 

そういった体験があったという事を、ここに書いておく。
後から意味を意味を補完している部分もある為、分かる様にはなっているはずだ。

過川

得ると同時に失う。失うと同時に得る。
正負の法則?代償の法則?真理を知った様に述べたとて偉い訳ではない。世の理を論じて学者の椅子に腰を掛けたければ、バーカウンターにでも行くが良い。身の丈にも合わず背伸びしたカウンターチェアがお似合いだろう。ロシア文学の様な文句を並べ立てても現代に生きる自分の空虚さは際立つばかりだ。

 

この汚泥に塗れた心を津々浦々投げられる場所はこのブログの他にないと宣言しよう。だからといってこのサイトにそういった役割を施して、精神的負荷が掛かると文を書きにやって来る、という訳ではない。負の感情、負の言葉が僕を動かし、綴る作業へ誘うのだ。浅ましくも、吐露しつつ何処かで魅せる気持ちを忘れていない。


今日は苦しかった。『心』というものを考える事は哲学ゾンビを生み出す行為である事は重々承知していた。

幸福を求める事は愚かだ。

片道切符を握った人間が勇ましく、十字軍を気取ってより良い世界を望む。切符を握った事に喜び、帰りを忘れてしまうのだ。未来に目を向けず目の"後"の過去を見て評価する。

焚き火を囲い酒灼けた声で笑う人々。
幸福を求めず、探さず、追わずに拾う。そんな生き方が出来る程、皆器用じゃない。分かってはいた。

 

人は愚痴りに行く場所を求め、サービスを提供する店へと足を運ぶ。その鈍重な足によって響く地の気持ちも知らず、酒は脳を痺れさせるものとして胃へと流される。嗜みなんて言葉は余裕のある人間が使うもので、そういった拠り所を浮つかせたまま惰眠を貪るというのは些か罪悪感に苛まれるものだ。文はより自虐的に、複雑さを増して電子の海へと届けられていく。

500文字以上書いたにも関わらず、それらが何故書かれたのか、苦しさの理由も、幸福を嗤う意味も明記せずに講釈を垂れている。

 

なので、そろそろ構造の解明に移ろうと思う。

 

お喋りは程々に言葉のシンプルさを忘れてきた人間からの脱却を図ろう。僕のこの憤りの原因は青さ故の色恋への惑いから来ている。

この惑いが誰かから来ているのであればどれ程の幸せだったか。

僕は恋愛が出来ないと思っている。故にアプローチがない。一定数、距離を取った博愛を行い、一歩退いた隅で笑っている。卒業生を送り出す在校生の列の様な、祝いを装う残酷な時間だ。真に祝う者達が集う時はいつも、規模の小さいものであって、人が増えれば増える程その心量は減っていく。

 

恋は長所を好むもので、愛は短所も好むものだと誰かが説いた。

その時に真っ先に「くだらない」と言葉が湧いた。しかし、それは僕が恋も愛も出来ないと勝手に諦め、決めつけていたからなのだ。

愛し方が分からない。真実はこうだ。性的指向も起因しているが、これは致命的だ。

 

愛する事が幸福になる事ではないと考える。愛が幸福になる為の何かを導く存在になり得ると、そう思う。

 

僕は変わらなくてはならない。負のエネルギーで生み出す事にも限界はある。鰹節の様に身を削っても長期的に面白いものは作れない。
僕というコンテンツが負で箔押しされるのは、あまりに稚拙だ。だからまず、愛を探す事から始めようと思う。
吹き溜まりにいる枯葉は周りのものばかりを見ては自分を評価してしまう。空には大きく伸びる木があって、日を浴びようとしているのにも関わらず、それにも気付かず地を滑り、時折渇いた笑いを溢す。

 

文を読むという事、それを避ける人間は、文そのものに『面倒臭さ』を覚えているという。文を書いてきた者として、その感情を抱える人間が増えてきた事について嘆きを持たずにはいられない。この文全てが僕の『認めて欲しい』という人間の根幹から湧き出る低俗な感情で書かれているとして、それを古池に投げて水面の反響を楽しむ事で収まる程、僕は表現者としての姿勢を低く評価していない。

 

僕は低俗だろうと、高尚だろうと、ただ書くだけなのだ。

生活や、能力の研鑽も一区切り。ここから終わり、そして始まる。源泉を振り返り、大海を望む。観測者はそれらの中間にある河川に向かい、文字の黒船で乗り込んでいくのだ。

淡月

最近、夢がやけに僕に厳しい。

僕の世界の範疇の外に出ている攻撃的な言葉が実体となって、まるでスーパーの陳列棚に置かれているかの様に整然と僕を襲って来る。面白いのは、その言葉は僕の毒と融和性が高い。それ故に僕の文章は一層冷笑と汚泥で染まり、硬直した繋がりがこうしてブログに綴られているのである。それはそうと、僕は踊らなければならない。変に生きようと思うのは誰かの為でも自分の為でもない。ただ生きている体裁を装いたいだけだ。そこに生きている僕が、紛れもない僕であると皆に認めて貰いたいのだ。これは独善的で自信過剰な自分が産んだ嫌な理由だ。

綺麗事ならいくらでも言える。十割嘘の話も簡単に友人に話せる。それだけでは何も面白味がない。真実を嫌っている訳ではない。嘘に悦を覚えている訳でもない。人は真実を求めつつ、嘘に興じたい生き物である事を知っていて、目の前の人間の真実に触れる程の労力を割かない事を分かっているのだ。真実より嘘の方が柔軟性もある。『夢の真実』など誰も気にしていない。夢自体虚構の塊だ。そんなもの、魅力も価値もない。それを引っ張り出し創作の題材として形ある表現媒体によって出力する事を生きている僕の活動報告として聞いて欲しい。

 

僕は女性と二人で歩いていた。女性の顔は見知らぬ、いや、面影のある知り合いの人間を合成した様な、掴み所のない柔和に満ちたものだった。彼女が着ていたのは厚手のトレンチコート、ベージュと黒の千鳥格子の柄だった。それがやけに目に入って、印象に残っていた。足元を枯葉が小刻みに揺れつつ地を這っている。並木道は舗装されており、僕達は公園に入りその木々を遠くから眺める事にした。
ふと彼女は僕に自分のストーカーを紹介してきた。ストーカーは細く高い声で細かく笑っていた。「変な奴だな」と思いつつ、ストーカーの前で女性はストーカー被害に悩んでいる事を告白した。僕は正義の炎を灯してそのストーカーを成敗した。その場で。その後、女性とブランコを共に漕ぎ、公園を出て団地へと進んでいった。
団地の遊び場の様な場所に来た。小さな橋と直線の川。礫を固めた様な地面の空間が広がっていた。そこで僕は女性に突き飛ばされ、頭を打った。先程成敗したストーカーが僕を羽交い締めにする。女性はナイフを取り出し僕の首の動脈を切った。
ゆっくりと、暖かく、ぼやける視界が羽毛に包まれ、静かに死んでいく。抵抗はしなかった。女性に首を切られた事に、その時何故か妙に納得していたのだ。

 

僕は目覚めた。死んで終わる夢は久し振りだ。ある種、並行世界の僕を体験していたのかもしれない。僕というコンテンツの一端を牢の外から視認した気分だ。大きく口を開けた。あくびは出なかった。夢の中での会話が一切思い出せない。もし思い出せたとしたら、僕は声を出して泣くだろう。時刻を見るとまだ深夜3時だった。ベランダに出て月を見た。全体に雲が塗られ、輪郭のみが街を照らしている。あれが本当に月なのか、それも分からない程に厚い雲。

それすらも愛おしく思うのは、僕が嘘吐きを愛しているからだろう。

薬飯

飢えた人の前でピアノを弾いても、飢えた人は救えない。

飢えた人の前で絵を描いても、飢えた人は救えない。

飢えた人の前で演じようとも、飢えた人は救えない。

芸術は癒せても満たせはしない。薬じゃ腹は満たせない。

満腹になるほど薬を飲んだら、その人は確実に死ぬだろう。

満ちた人は不足を求め、不足に悩み病む。それを癒すには。

 

芸術の根幹にあるもの、それは『美』だ。人間達は美を追い求めてきた。

美は崇高で、完璧で、万人から認められる。そういったものだ。

薬じゃ腹は満たせない。だから、美は完璧じゃない。

なのに美の万能さを盲信して猛進する狂信者達は自分を『アーティスト』だと名乗る。

 

ある人が、「音楽は国境を越える」と言った。それは世界平和の様に聞こえるが、実際は越えているだけで繋げてはいない。世界平和ではなく、世界共有に過ぎない。

飢饉に苦しむ人間が歌を求めているとは思えない。チャリティーコンサートは歌を捧げている訳ではなく、そこで生まれるお金を捧げているのだ。それは芸術の力で勝ち取ったものではあるが、芸術の力そのものではない。

 

美は人間に必要だ。しかし、生命維持に重要であるかどうかは別だ。

国は、芸術を不要不急と認定した。本当にそうだろうか。文化的な生活はどこへ行ったのか。

薬じゃ腹は満たせない。それが満腹になったと錯覚する薬だとしたら?

それは明らかに人間の内部システムを破壊する。代謝の輪廻を終わらせる。褒められたものじゃない。

 

人間が『心』を問う様に、人間が『豊かさ』といった表現を用いる様に芸術はそういった形のない信じるものに寄り添うものなのだ。宗教の祖が美しさの極致にあるのは、そういった信じるものの異なる万人に平等に寄り添える様にあるからなのかもしれない。

何を言っているのか、分からない人はそれで良い。知は時として残酷だ。その人の世界の知であるか、人の知であるかの判断は自分の世界を通してでは難しい。だから、割り切って生きる事も、戦略的撤退も、あって良いのだ。

 

薬じゃ腹は満たせないと再三言うのには訳がある。

 

薬は別腹、と言ったら面白いからだ。

破裂

僕は嫌いな人間がいない。

皆尊敬出来る好きな人間ばかりだ。

なのに僕は人間が嫌いだ。

どこまでも愚かで、考えて、知ろうとするから。

だから、自分も嫌いだ。

なのに僕は人間を見つめて、彩っては、面白がっている。

そんな自分を好んでいるから、人生を捧げようとしている。

人間は演じる事を常に生活の営みに組み込んでいると言うのに、僕はそれ自体を生活の営みにしようとしている。

さらに考えて、知ろうとする。愚かだ。嫌いだ。

 

 

僕はペットが嫌いだ。

何も考えず、知ろうとしない人間の様だから。

幸福が何かも死ぬ事が何かも興味がなく、ただ媚びて生きている。

だから嫌いだ。

従属と隷属は違う。野生がそのどちらにも優っているとは言えない。

ただ、僕は人間と異なった生物が人間に知性以外でアプローチを行なっている事に畏怖を抱いている。

だから嫌いだ。

そんな自分も嫌いだ。

 

 

誰かが言った。「考えず、知らなければ幸せになれる」僕もそう思う。

だから幸せになる為に馬鹿になる事にした。

何の意味もなかった。その言葉を知っている時点で、もう幸せにはなれない。

人間は『幸せになる為に生きると呪いをかける教え』を受けてきた。

その点で言えば、ペットはその呪いを受けていないと言える。

でも思考停止は人類が生物の頂点であると勝手に宣言しておきながら行う事としては間違っているとも思う。

 

こういったダブルバインドを受け取り続け、ついに僕は破裂した。

 

 

破裂した。

 

 

人間は不幸になるしかない。そうなる様に作られた。

順応は環境の変化に対応出来る素晴らしい機能として認知されるが、実際は幸福をゴールとしない為の大きな障害だ。

人間は幸福になる為に生きる。不可能な目標だ。フィクションの世界に対して指針を置いている冒険家が航海に出かけても世界の端から落下しない様に、摂理は壊さない限り変わらない。

この出来事に考えた結果辿り着いた僕は幸せになれない。自己完結した悟りは摂理ではないから、これは事実ではない。

 

 

また、破裂した。

 

 

僕は嫌いな人間がいないが、自分は嫌いだ。自分は人間ではないと思っているからだ。

だったら僕は新たな知的生命体?宇宙から飛来した地球外生命体?

否。人間である事は事実だ。不幸のまま、考え、知ろうとする愚かな動物だ。

僕は人非人でもない。非・人非人として斜に構え、こうして否定的意見を述べてみた。

結局、幸福の渇望は救難信号ではなく、負け犬の遠吠えに過ぎない。

だから嫌悪する。嫌悪して負の力を溜めている。それが漏れ始めた所で誰かが気付く。

誰かがその力に共感する日が必ず来る。

人間は不幸になるしかない生物なのだから。

共感は輪にはならない。

焚き火の様に燃える僕の遺体に客が集まって、その影がまた影を誘う。

僕はその影で何も見えなくなった視界の中で、焦げながら力を解放する。

徐々に火力と力は削れていき、ついには潰える。

それが僕の肉体的な死だ。

そして影は消えた火から去っていく。また一人、また一人と。

誰もいなくなり炭と灰塵になった時、精神的な死が訪れるのだ。

 

 

僕は今、力を蓄えて、ほくそ笑んでいる。

 

 

焼けた炭が割れて、破裂した。

駱駝

存在しないはずの砂を吸い込み噎せた。

この星は怪訝な視線で溢れている。なんて不快で退屈なんだ。
興じる心を失った雑多な者共は歯車を自覚せず役割論に乗っ取って電網に群がる。
「気の毒に、今日はお前修学旅行だろ?」
亡き父が僕に言う。ホームの待合室に立つ僕達は電車を待っているようだった。ここは夢か。そう直感したのは遠くに見える巨大な砂嵐だった。落雷が亀裂を描き、螺旋を描き、波を描く。そうか、声が震えている。これが期待なんだ。
「そう、でも行く所そんなに楽しくないし」
「どこに行くんだっけ」
行く場所を考えるがあの場所は何と言うのか。日本刀で輸血パックを裂いて笑っているような路地裏の陰湿さで、頬ごと口を締め付けて足枷をはめるような拷問に近い規律性で、ポラロイドの粗さをぶちまけた窓際の静かな気味悪さがあったあの場所は、あれだ。

学校だ。

「学校行くんだ」
「修学旅行で学校か。また意外な所だな」
「つまらないよ。いつも行ってるような所だろ?」
「まぁな。人間っていうセオリーに組み込まれてる所だし、新しさはないな」

毛羽立ったスニーカーを見て、もう捨てる時期かと靴紐を改めて結ぶ。
どうしても僕という人間は一瞬を切り取る才に苦しみ、どこか誇らしく思っている。
「あ、来た」
電車が来た。父はそれに轢かれた。さようなら。これがどこに向かうのか確認して乗り込む。駱駝の乗客はマスクを着けてニヤついている。吐き気のする日常の流入だ。
同じクラスの人間が僕を見つけるが横向きに持ったスマホに目線を戻す。そうだろうな。僕は今肉塊に見えているはずだ。

存在しないはずの砂を吸い込み噎せた。

皆僕を一斉に見て、僕を刺し殺した。楽しそうだった。痛みはなく、当然のように思える。

 

「旅行って、こんなに虚しい気持ちにさせる存在だったかなぁ」

 

砂嵐が列車を飲み込んだ。人間の証が洗い流されていく。車両には僕以外残っていない。無惨にも、そう表現しそうな自分が恨めしかった。
これは夢だ。そう自覚出来るようになってから夢はその牙を鋭く研ぎ出した。僕が何をしたと言うんだ。慟哭で車両の窓を突き破るとトマトと消毒液の塩素の香りが前方から漂って来た。面倒臭いと感じるのは、きっと授業の記憶だろう。いつのものだろうか。

学校に向かうはずだった列車は既に線路という概念を無視して進んでいた。砂嵐の心が僕を解放していく。僕をこのまま、このまま、どうしてくれと言うんだ。
読み進めていく内に徐々に文字を読み飛ばしていくあの感覚が視界を奪う。盲点が広がる。未来に寄生虫が取り憑く。砂が集まって鏡になっている事に気付いた。自分は笑顔でピースサインをしている。ここまで虚栄心に浸されたピースサインを見るのは初めてだ。この砂嵐は僕が青春を置いてきた事を咎めに来たんだ。

寒々しい。何が間違いだって言うんだ。無力さ。無力なんだ。駱駝よ、お前は何が可笑しいんだ。何に笑えるんだ。何故躊躇なく、僕を殺せたんだ。
僕は夢の線を切った。目覚めは苦しいものだったが、現実の暗さは希望の灯に思えた。

 

僕の言葉を否定するな。あの砂嵐は、紛れもなく僕自身だった。僕を否定した、あの頃の自分だ。僕は過剰な自己否定をしてきた。それにより、一度精神を壊している。その反動から自己否定に対して恐怖心を覚えている。その代償が脳に虚像を生んだのだ。

 

 

ああ、寒い夜だ。

氷雨

夢現を往来している。最近、夢の頻度が増えてきた。目を開け、上体を起こすのもレコードの針を落とす時の慎重さに似ていて、剥離した指先の皮を眺めては目やにがあるかどうか擦って確認する。そんな日々で空は相変わらず僕を写す様に冴えず、ただコンビニのアイスコーナーの様なムラのある冷気を放つばかりだ。鏡から目をそらし洗顔を終え、片手間に食材への謝意を済ませ、食道の運動を感じつつ起伏も何もない味の刺激を透過した映像記憶をコーヒーを飲み干しあくびをする頃には消し去っている。愛もなく、他意もなく、生害に対して考え命とは他の為にあるべきか煩悶してみた。態勢はさながら文豪で、人間は悩まねば生きていけないとでも言う勢いの眼でひたすら文を綴っている。

 

 

保護の名の下にエゴを行使する人間を借りている僕にもポジティブな感情は存在する。誰かを好きになり、その存在を肯定し、自分を尊重する。必ずしも僕は斜に構えた批判快楽主義者ではない。ただ誰かが楽しそうにしている声を聞く為に意味もなく友人と通話する事もあるし、薄着で外に出かける事もある。樹皮がハゲてしまった街路樹を横目にスキップをするし、水たまりを踏んだ事を楽しいと感じる。まぁ、所詮自分の気分によるものだ。それが感情的な行為であり、それを括る空間である事は間違いなく、風呂上がりのアイスも明日を考えて控える程度の心持ちだ。

 

 

僕はこの何週間か、幾度も降る雨を聞いていた。雨は世界を静けさに連れていく。社会が動き、鼓動を引き出す。道路の水を跳ねる車がテレビのサクラの笑いと共に湧き上がる拍手の様で憂鬱になる。だが冒険心は消えない。この風は、冷たさは、血潮の暖かさを確かめてくれる。明日の為に目を閉じる行為を容認する寒さをこの雨は持っていて、そこに甘える自分を許す世界がこの時間にはある。僕は今を愛している。だから、現在を観測しつつ、過去や未来に思いを馳せてしまう。

 

そして、またささくれをちぎる。

 

幾ばくか月日が空くもこのブログは閑散とする事はない。何故なら元々繁栄などないからだ。不思議と僕の文章は一度読めば満腹感を与える様だ。良い意味で、だと良いが。言葉の硬さが軟化する事もなく、こう、生真面目に自堕落に並べられている。また気が向いたら書こうと思う。

抜錨

誰もいない。誰もいないようだ。

かき氷の器を持つのが憚られる。

夏ってのはこんなに静かなものなのか。

蝉がいない昼が、こんなにも恐怖心を煽るのか。

じゃあ、また眠ろうか。

 

 

皆は、春と夏の間にどのような色を印象付けるのだろうか。

淡い青、空色、黄緑、群青、ビビッドピンク。

僕は藤色だ。

あの紫が、夏の始まりを感じる夜明けに思えるのだ。夜明けに暖かさを感じる瞬間が、最高に快適な夏だ。ただ猛暑を奮い、風情をでたらめに解釈した気分を下げる夏は強い太陽光であって、夏ではない。

そんな夏に独特の感情を抱く僕がこう文章を書いている今、窓の外から梅雨という耽美なクラシックが流れている事に気付く。雨は全てを動かし、全てを静止させる不可思議な事象だ。何と美しい。過去が満ちていく。水が流転する。僕が消費されていく。

 

 

夢を日記に記すと虚実の間を彷徨う事になる。結果、僕の妄想は徐々にMDMAのように飛躍したものに変貌を遂げることとなる。

 

ゴミ箱を見る。そのゴミ箱は人間の眼孔で、見たものの情報を捨てる事で脳に伝達信号を送り日常という昨日を消費し破砕していく機関なのだと考えてしまう。

盆栽を見る。彼は銀虫にとってのコロニーで、内部にはエレベーターとスパが完備されており、非常に快適。しかし水に弱い為、銀虫が好むスパを続けていると木が腐ってしまう、と考えてしまう。

鏡を見る。その先にあるのはテトリスの消えたブロック廃棄場と「私はロボットではありません」と確信を持てなかった自分の収容所が併設されており、その二つを統括しているショーウィンドウはショッピングモールの一角であり、消費者は定期的に地震を起こし地球の排熱を促す地盤マザーコンピューターである、と考えてしまう。

 

 

ここまで突飛な想像が溢れるようになった現実で、僕は僕を制御する術を持っているが故にこれを利用できている。では、パニックが僕を潰してしまったらこの発想達はどうなるのだろうか。現実に流入し、幻想の枠を破壊し世界の理をインスタント的手段で変えてしまうのか。僕の世界は僕のみであり、僕がいる限り僕という養分を吸ってその核廃棄物達は循環していると考えると、僕が潰れた場合、この発想は琥珀になる事もないだろう。

 

 

つまり、という言葉を用いようとしたが、要約を施したとしても難解なものだろうから使わない。

現実世界に僕は錨を下ろしていて、そこを外したり追加する事で発想のベクトルを自由に操作している。実に面白い。

 

 

だが、雨だけは、

 

どこまでも雨で、

 

だから僕の中で特別な存在なのだ。

羽音

両腕を擦りつつ猫背で目覚める旅人。傍らには砂埃で鈍色になった黒猫が丸くなっている。
今日の飯を探さねば。そう思い、重たいローブを握りテントを畳む。朝日は曇った笑みを見せ、もう遠くない夜を感じさせる。湿った土、くぐもった木々、この空の下、旅人は自らと手を繋ぎ明日に祈りを捧げる。黒猫と共に歩む旅路に悲しみはなく、憎むべきは環境であって景色ではない。

 

 

 今、我々はその場で足踏みをしているようで、本当は前進しているのだと述べたい。というのも、心というものは不可視であり不可思議なものだ。そこに生まれるのは想像の余白に演出されたイデアと美学、不安と恐怖だ。それに生産性はなく、ただ”そう感じる”だけなのだ。今我々は行動を起こすべきだが、起こしている行動も見るべきだと考える。感じる事も大切なのだ。行動自体は無味乾燥なもので、そこに感情が介入する事で人間が行った意義が生まれてくるのだから。

自宅に流入する労働、絶え間ない防衛措置、募る解放への思い。夢に飢え、誰かの粗相に対して、いつも以上に苛立っている。僕は今の社会に柔らかさを感じていない。一概に括るのも遣る瀬無いが、今の閉鎖された世界が檻か箱庭か、どう感じるか考えても答えは檻、その意見が強いだろう。だから、祭囃子の甘さが欲しくなる。

 

 

僕はおよそ100年前に同様に一種の病が流行した時代の人々の思いについて調べていた。彼等は現在と変わらず、マスクを求め争っていた。マスクを着用しない者を『命知らず』と称して侮蔑したのだ。とはいえ、この貶しも流行を抑える為である。皆の為、皆の為と思う事で言葉は過激になり、集団心理は毒性を増していくのだ。今も昔もそれは変わらない。文化は変化しても、人間は人間のままなのだ。

 

 

うるさい。虫が飛んでいる。

どこだ。

いない。今は深夜だ。明かりもなく、ただ聴覚だけが虫の存在を誇示してくる。

僕は考えた。

虫は動き、生きているだけだ。その場を飛び、彷徨っているだけだと。

 

 

どうして僕はその虫を『殺す』事しか考えていなかったのか。

 

 

愚かだ。視野が狭まっている。虫と共に、生きる空間があっても良い。吟遊詩人を気取る文ばかりを綴る脳ならば、この空間にも風情やら何やらを感じていてもおかしくはない。

己を鼻で笑い、毛布を被った。芯がじんわりと温まる。眠りにへと、静かに誘われる。

融和が僕を巡り、羽音は消えた。もしかすると、注意の範疇から外れただけかも知れない。それでも僕は満たされていた。あの黒猫が僕の毛布の上で転がり、眠っているような気がした。幻の重みが、温かい。

 

 

今だからこそ、許す余裕を持つ事にしよう。

夜の帳は風に揺れる。朝を待つ、旅人を迎える。

一人

湿り気を微かに残すコンクリートを前に、大きく息を吸い込んだ。

食卓にはピザのような脂っこく人懐っこい匂いが残っていて、美味を感じつつも反応は取らない、静かな食事の時間が真夏の風鈴の照り返しの様に次々と瞼の裏に溶けては消えていく。

 

 

ここ最近、外に出る人間は減った。蔓延した不安、正体の見えない汚染因子、止め処ない玉石混交の情報。いつか、僕はそれらを歴史として振り返る。その時の自分と、今こうしてベランダに出る事に迷う自分とは何が違うのだろうか。

磨いたコインを手癖で片手間に弄りつつ、暁とカラスの調和を眺めていた。

 

 

しばらくして、僕は渇きを覚えた。

喉ではない。娯楽の光だ。祭囃子だ。何処か皆、守る事が大切だと盲信し、自分自身に蓋をしている。確かに、体を守る事は命を守る。しかし、心はどうだろうか。

守る為に、光が排斥されつつある。圧迫された人類が心の渇きを逃す為に生み出したのは歌だ。踊りだ。信仰だ。

現社会、及びパンデミック下の環境において信仰は得策とは思えない。

皆が適切に距離を取り、電脳を通じて手を繋ぐべきだと、僕は気持ちを綴ってみる。

とはいえ、これも試験問題の筆者の気持ちを述べよといった形式に似ていて、我々が答えを知り得るはずがない。

何が正しく、どうあるべきかなど、一個人が語れる程、『一人』は強くないのだ。

 

 

で、僕は春だというのに凍風を吹かすこの空に歌を焚べている。皆、不安なのだ。

釈然としない。誰が自分に害を及ぼすのか、分からない。皆、未知を恐れ、他人を背景ではなく”他人”だと認知している。

口笛は遠く、淡桜は噎せる。新月を見たいと、強く思う様になった。

誰のせいでもない。だから、僕は怒らない。今起こる事が後の祭りになろうとも、僕はその後に待つ祭りに思いを馳せよう。

 

 

人類は、戦う事を選んだ。だが僕は戦わない。服従せず、少し斜に構えて寝床の天井を眺めながら歌う。この空気の中、同じ様に誰かが僕とは全く違う歌を歌っている事を信じて、僕はその人に向かって不器用ながらエールを送る。

 

 

これが僕の答えだ。一人だから、一人でも大丈夫と、

声を出したい。

煎餅

焼香と称した朝、燻る午後への期待を横目にカラスは木々を飛び回り内輪話に興じている。曙の紫は深く、空から生い茂った雲が芍薬を想起させる。とはいえ、この時間を僕は怠惰に過ごし、貪り、費やしてしまう。遣る瀬無さは峠を越した。

 

 

煎餅の固さは『生』の実感に繋がった。奥歯に感じる米の甘さと醤油のコク。炙る火の熱さがこの一瞬を作る為に彼方に消えたとしたら、僕は今、時間を食み、血肉を望む事になる。推測だが、実際そうなのだろう。僕はそうやって今まで暮らしてきた。愚かにも、人間とは誰かから時間を奪い、奪われていくものなのだ。

 

 

奪われた時間か。僕はコーヒーを片手に窓の外を眺める。殺気だった車の群れが近付いてくる。営み、一日、人生、宇宙。代謝される時間の渦の中、僕は煎餅を食べているんだ。僕は恵まれている。袋に残った煎餅の残りカスを口に流し込み、噎せた。ああ、生きているんだ。何て気持ち良い。

 

 

そうだ、昔の話だ。僕は昔の話を思い出して、ここに書く事にしたんだ。そう、子供の頃の話だ。幼い頃、僕は放課後はふれあいスクールらしき施設で勉強をしたり遊んだりしていた。玩具を使っておままごとをしたりブロックで何かを作ったり、粘土を捏ねて楽しんだり......遊びの事ばかり思い出すが。

その中でも、特に印象深い出来事があった。

 

 

僕は発明をした。お洒落の大発明だ。僕は突如ズボンのポケットの上部分とベルトラインに穴開けパンチで穴を開けた。そこにプラスチックリングを鎖の様に繋げて通したのだ。僕はこれはお洒落だと色々な人に自慢した。母に自慢した時、母は僕に才能があると確信したらしい。僕はその頃、ウォレットチェーンを見た事もなく、知らなかった。僕にとっては発明だったが、母にとっては僕がファッションに目覚めたと思ったのだろう。まぁ今となっては笑い話だが。不覚にも現在のファッションセンスは尖りに尖ってしまった。昔の母は僕が黒い服しか着なくなるとは到底想像も出来ないだろう。

 

 

子供の頃は楽しかった。何も知らなかった。何も知ろうとしなかった。それは、養われ、育まれた証なのだが、僕はその価値に気付けず今こうしてコーヒーを飲んでいるのだ。

今の僕は恵まれている。だが人間の欲望に際限はない。

 

 

僕はあの頃の自分が羨ましくてならない。無垢とは名ばかりだが純粋に物事を楽しむ目を持っていた。今の僕は知識や常識、歪曲した価値観に風景を破壊されている。何事にも得ると同時に失うものがあるのだ。友人と遊ぶだけで楽しかった。今友人と遊んでも、『何をするか』ばかりを考え、純粋に時間を楽しめていない気がする。情報に舌が肥えてしまったのだ。滑稽だが、その分僕は聡明になれた。

 

 

また溜息だ。文豪もこの朝に溜息を溢したとしても僕より余程艶美で優麗な事を考えていたのだろう。いや、もっと獣臭く泥の様な思考だったのかもしれない。

推測、また推測だ。今の僕なら哲学者も拍手を送ってくれるかもしれない。

 

 

代謝される時間。老廃物は弔われ、忘却の中、船を漕ぐ。泥に浮かぶ船、どこへ向かい、何をするのかは分からない。人間は、目的がないと生きられない。だから漕ぎ、泳ぎ、進む。

後頭部に目がない事が幸いし、進む足は止まらない。

僕は、煎餅の袋を捨てて、朝を始める事にした。

甘露

チョコレート、アイスクリーム、ケーキ......甘さが盛りに盛られた食べ物を口にした季節だった。ふと、僕はスーパーのさつま芋の目が止まった。おお、さつま芋か。石焼き芋のような大掛かりな調理は出来ないが、ちょっと食べてみるか。

 

 

思いつきで食べてみたが、さつま芋の美味しさは僕の舌に多幸をもたらした。季節感を忘れたのかと突っ込まれる所、待って欲しい。さつま芋の収穫は確かに9〜11月だ。しかしそこから2ヶ月か3ヶ月それを貯蔵する事で水分が飛び、甘みが増すのだ。今がさつま芋の第2の旬と言える。

美味しい、いやぁ甘みが深く、濃厚な香りが鼻腔に抜ける。美味しい。蒸すのも焼くのもありだが、甘露煮は今の季節に良く合うだろう。あの照り、そして花の蜜のような淡く華やかで芳醇な香り。何より色が好きだ。暗めの橙と鮮やかな紫。足先が冷え、どこか浮ついた重心がその色と香りを楽しむだけでストンと落ちてくる。

 

 

共に飲む物にも気を遣う。ほうじ茶、コーヒー、牛乳。様々試した。調理法によって合う飲み物が変わるのもまた一興。夜の学校を探検している気分だ。あの知っている空間が知らない空間に化けていて、そこを模索するかのような不安と期待、さつま芋の知らない一面を知る度に楽しくなる。

 

 

えーっと、何故さつま芋を熱く語っているのか、まぁ、これは日記ではないが、僕の食に関する興味は他の人間に比べて薄い為、興味を持った時の熱が凄いという事を伝えたいのだ。

 

 

まぁ思いつきで何か行動を起こすのは普段の散歩に良く似ていて、衝動的とは異なった、『閃き』をテイスティングしているような作業で、非常に本能的に世界を楽しめる時間である。炸裂する視界の情報を選別し、気の流れの赴くまま、時には歌い、触れて、確かめる。

 

 

思えば、現代の人間は情報過多社会のせいか可視化されていない情報を汲み取る術に疎くなっている。放たれるジョークの質は下がり、映画のパンフレットには文字が異様に書き込まれ芸術より情報が優先されている。どうしたものか。詩や表現作品が語ってきたあの世界が形骸化していないか。僕は危惧している。いつか人間が、目の前の物しか信じる事が出来ない。形式的パラノイアを患わないかと。

 

 

これは僕の脳裏、思考を文章にして表立ったネットの海に放流しているのであって、結果、この文章がほとんど身内のみで供給され、忘却の地へ旅立ってしまうという現状を憂いている。それが承認欲求に繋がる『こうなれば』である事を僕は認知していて、それを避ける天邪鬼を抱える自分に嫌悪感を示すのもまた人間を拗らせていると言える。

このブログ自体、ひっそりと誰かが望むくらいが身の丈に合っているのだ。何も面白さを求めて書いている訳ではない。僕の脳裏に興味を持ち、次に出る言葉を楽しみにしてくれる、そういった人間が現れるのを僕は願っている。

 

 

冷めたさつま芋も美味いな。甘さが引いた、悲しみの冬ももう終わる。今年も、桜を見に散歩に出かけよう。僕は軽く塩を振り、最後の一切れを食べた。

消去

誇り高く、誇り高く!拳と声を高らかに!証を見せよう!我々は生きている!我々は空の青さを知っている!我々は歌を歌える!誰かの為に涙を流せる!我々は強者に屈しはしない!我々は真を語りはしない!救済に祈りを捧げたりはしない!進むのだ!進むのだ!前へ!前へ!

 

 

青空の下、未知のウイルスによる感染症で、何人もの人が道端に倒れている。その手を踏みつけるように、スーツの人々は行進を続ける。ガスマスクを着け、無機質に笑う彼等は自分達を、誇り高く、生死に縋らぬ戦士と説いた。このマスク一つ外せば死に至る。その事実から逃避し、この行進は武器も無く続けられている。穏やかな午後の日差しの中、風はいつも通り、死体の上を通り抜ける。病院は腐臭の海だ。道路は車の山だ。このコントラストを指枠で囲い、心の中のフィルムに納め、僕は思う。生き残った僕ははたして幸せなのだろうか、と。

 

 

どうでも良いか。はい、こんにちは。久しくブログを更新していなかった事、お詫び申し上げます。まぁ閑古鳥も巣を作って落ち着いている所に水を差すのも無粋ですし。ぼちぼち、また書いていきます。

 

 

死にたい、と良く文面で見かける。何かなと思い覗くと辛い事への嫌悪感の意思表示だったりする。だが、本当に死にたい時には、死にたい、というよりは消えたい、が先行する事に最近気付いた。なかった事になりたい、すっと消えてしまいたい。この欲望は実に美しいと、退廃的かつ自然美に鋭い僕の目が捉えた。死は消失ではない、これは真理だろう。何かを追いかけ、ここに来た。

 

 

あなたの、夢を教えて。誰かの声に僕は笑顔で返した記憶がある。それは将来の夢と言った煌びやかなものではない。あの言葉の夢には、もっと白く濁った、死の匂いがしていて、現実が見せる夢、夢が見せる夢とは異なった、人間が見ているはずが目を背けているものに近い意味合いを持っている気がする。まぁ、それは記憶であって、不明瞭なイメージの産物であるから、その時点で現実が見せる夢ではないのだが。夢は、消失してしまう。泡沫の如く。ランタンを指で鳴らした事はあるか。グラスは。机は。そう、童心は、役割を拭い去る力を持つ。ランタンは照らすもので、グラスは注いで飲む為に使う、机は物を置いたりする。それだけではない事を知っていても、役割に落とし込み、安定に満足しているのだ。際限を作り、世界を構築する、これが現実に成り得る。

 

 

青空の下、拳を高らかに上げ、僕は叫ぶ。

 

 

「僕は今までを、ファイルを消去します!ゴミ箱を空にはしません!絶対にしません!いつか元に戻す時が来ます!消去したものを、復元し、呼び起こす時が来ます!それまでは、この生にさようなら!そして、僕は無垢を拒みます!新たな生が無垢であっては、誰がゴミ箱を憐れむ事が出来るのでしょう!」

 

 

遠方の黒雲が、光と共に響く拍手を奏でた。

論影

僕達の存在が気になる人間の為に、この記事を用意した。
僕の脳内で、僕達がどう動いているのか。これは嘘か真か、他には判別できない思考の世界、そこに生きる僕、その人である。

1月15日、水曜日。天気、雨のち曇り。風は冷たく目の潤いを奪う。手先は鈍り、その厳しさに肌が悶え縮こまっている。

僕A「寒い」
僕B「寒いな」
僕C「そうやってスマートフォンいじって手先冷やしてるからだろ?」
僕A「惰性でスマートフォンを触るのは多いけど、これは別にそれじゃない」
僕C「あっそ」
僕B「急に冷たいな」
僕C「何か聴くのめんどくせぇし」
僕A「はいはい」

1月15日、水曜日。天気、雨のち曇り。屋内は暖房が効いており暖かい。気流のせいかカーテンが微かに揺れる。心地好いが息苦しい。換気をすればこの空間は溶けてしまうだろう。

僕D「じゃあ心ないあの言葉をどうしろと」
僕A「いや、あれはそういうつもりじゃないよ」
僕C「賛同しかねる。あの言葉に悪気はあるだろ」
僕B「待って待って、状況を整理しよう」
僕A「ここは言わせて貰うが、僕が可愛いを理解出来ずに、それでいてそう言う事を意図的に避けていると、そう相手があらかじめ知っていてその上で僕に言ったと」
僕D「そこまでは言ってない」
僕C「そうなのか?そこまで言ってるように思えたが」
僕D「お前(C)はどっちの味方なんだ」
僕C「もちろん君(D)さ。でも、俺は君(D)がそこまで言ってるように思えた。俺はそうは思わないよ?悪気を持って、あいつは俺達に自分が可愛いか問いかけた。それだけだ」
僕A「ひねくれ過ぎだ。話にならない」
僕B「そんなに相手が考えて発言してると思うか?皆持論を持ち込むのはいいが相手に押し付けるのはやめろ。今現在、相手が考えて発言しているって前提で話してるけど、そうじゃないだろ。僕達とは違う」
僕D「分かった。言い分は分かったよ。で?俺はそうは言ってない。心なく、俺達に試練を与えた。良いか?心なくだ。お前(B)の言う通り、考えもなく、あいつは俺達を傷付けた」
僕A「違う!やめだ。もうやめよう。あの子を独断と偏見で悪く言うのは良くない」
僕C「賛成」
僕D「賛成」
僕E「僕達に気があって聞いたんじゃないの?」
僕B「頼むから、話を、こじらせないでくれ」

1月15日、水曜日。天気、雨のち曇り。電車の暖房はデタラメだが、効果的だ。立ち上る疲れが蕩けて眠気に変わる。仲間達との話は、他愛もない話とは言い難く、僕達を論議に持ち込んだ。

僕A「心の入れ換えか……」
僕B「少し悲しいまであるね。その言葉は」
僕D「実際俺達は入れ替えてばかりだからな」
僕C「そうなのか?」
僕B「いや良く考えてみろよ。おかしいだろこの状況。僕達が話す事自体、僕達の存在自体がさ」
僕D「存在否定はやめろ。規律違反だ」
僕B「違うそういう意味じゃない。解釈が間違うのは無理ないけど、違う。つまり、だから、あの人達にはON/OFFを切り替えるレバーが存在していて、僕達には個別で押しボタン式のスイッチが乱立している。機構が違うんだよ!悲しいけど、構造が違うんだ」
僕C「そりゃ悲しい。やっぱり、俺達が生まれたのは間違いか?」
僕D「いいや。むしろ奇跡だ。俺達が俺達を安定させている。素晴らしいと思わないか」
僕A「思わないね。僕達は僕達。好きに僕なだけさ」