車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

狼煙

スニーカーには針葉樹が似合う。祖父がそう言った記憶がある。本当にそう言ったか確かではないが、格好良かったので覚えている。今日、それを見た。自分の足元にふと目を落とす。僕のスニーカーは真黒だ。針葉樹の微笑みは尚も変わらず似合うようには思えない。あの頃履いていたスニーカーは覚えていないが、きっともっと澄んでいたはずだ。

 

 

蛙が鳴く季節は終わった。今日この頃の風を浴びてそう思う。自然讃美はこれくらいにして水彩画じみた考察に移ろうか。僕が愛について語る事は非常に多いが、それは渇望であり悲嘆の形相を有しており一般における華やかなものではない事を念頭に置いてもらう。ポエミーな文体になりがちな僕の文は花畑の夢見心地とは違って齧り付く林檎の卑猥な音を魅力として捉えてしまう壊れた色眼鏡なのだ。

 

 

僕は恋する人間を見る機会に遭った。非常に清い。あはれだ。僕にとって言葉とは武装、偽装、雑情に当たるのだが、結果それは伝達手段であって本能的な熱の美しさを超える事はない。だから、僕はそのかもめには届かないし、どう演じようがただの跳躍でしかない。

 

 

帽子を目深に被りマッチに火を点ける。煙草を持っていない事に気付き、そのまま発火し木を侵食していく黒を見つめる。やがて木は焦げ、持ち手の指に近付いていく。手を離さなければ火傷してしまうだろう。この炎が心を蝕んでいるとして、どうして見つめてしまうのだろうか。炎に価値があるとは思えない。そこに何を感じ、何を得ているのか。自分でも分からない。底知れぬ安堵だけが自分を温めているのだ。

 

 

恋はこの空間に等しいと考える。僕は何を焦っているのか。違う。理解出来ない自分を恐れている。恋を経験等とほざく自分に嫌気が差している。どうだろうか。この朝は聡明か。今日もスニーカーを履くと言うのに、僕は何も変わっていないじゃないか。あの頃のスニーカーを履けば、針葉樹を見つめれば、何かが変わるとはどうしても思えない。それすら今僕は欲している。自分の未知に、欠落した共感性に鞭を打って上があると信じている。

 

 

僕の筆には血と汗と涙が滲んでいるが、これはまやかしであり誇張に過ぎない。何故なら、僕は人間でありながら人間を理解出来ない、狂ったロボットなのだから。

どこかで蛙が鳴いた気がした。