車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

氷雨

夢現を往来している。最近、夢の頻度が増えてきた。目を開け、上体を起こすのもレコードの針を落とす時の慎重さに似ていて、剥離した指先の皮を眺めては目やにがあるかどうか擦って確認する。そんな日々で空は相変わらず僕を写す様に冴えず、ただコンビニのアイスコーナーの様なムラのある冷気を放つばかりだ。鏡から目をそらし洗顔を終え、片手間に食材への謝意を済ませ、食道の運動を感じつつ起伏も何もない味の刺激を透過した映像記憶をコーヒーを飲み干しあくびをする頃には消し去っている。愛もなく、他意もなく、生害に対して考え命とは他の為にあるべきか煩悶してみた。態勢はさながら文豪で、人間は悩まねば生きていけないとでも言う勢いの眼でひたすら文を綴っている。

 

 

保護の名の下にエゴを行使する人間を借りている僕にもポジティブな感情は存在する。誰かを好きになり、その存在を肯定し、自分を尊重する。必ずしも僕は斜に構えた批判快楽主義者ではない。ただ誰かが楽しそうにしている声を聞く為に意味もなく友人と通話する事もあるし、薄着で外に出かける事もある。樹皮がハゲてしまった街路樹を横目にスキップをするし、水たまりを踏んだ事を楽しいと感じる。まぁ、所詮自分の気分によるものだ。それが感情的な行為であり、それを括る空間である事は間違いなく、風呂上がりのアイスも明日を考えて控える程度の心持ちだ。

 

 

僕はこの何週間か、幾度も降る雨を聞いていた。雨は世界を静けさに連れていく。社会が動き、鼓動を引き出す。道路の水を跳ねる車がテレビのサクラの笑いと共に湧き上がる拍手の様で憂鬱になる。だが冒険心は消えない。この風は、冷たさは、血潮の暖かさを確かめてくれる。明日の為に目を閉じる行為を容認する寒さをこの雨は持っていて、そこに甘える自分を許す世界がこの時間にはある。僕は今を愛している。だから、現在を観測しつつ、過去や未来に思いを馳せてしまう。

 

そして、またささくれをちぎる。

 

幾ばくか月日が空くもこのブログは閑散とする事はない。何故なら元々繁栄などないからだ。不思議と僕の文章は一度読めば満腹感を与える様だ。良い意味で、だと良いが。言葉の硬さが軟化する事もなく、こう、生真面目に自堕落に並べられている。また気が向いたら書こうと思う。