車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

味蕾

お前のブログ言葉が言葉だからもっと改行しないと読みづらいよ、と指摘を頂いたので改善していく。天体が観測者の思うように動くというのは本来ありえないが、月の満ち欠けのように柔軟に、興に貪欲に生きないと彗星の輝きを得られない気がした。


指先の塩一粒、感触はなく、ただ極小の直方体が爪と肉の間に浮遊している。この結晶の味蕾に与える刺激の強さを考えると、非常に強い力を秘めている事が分かる。


だが、塩はそれだけだ。実直故の限界がある。白が突き詰めても白より先に歩めないように、この刺激もまた、終わりを迎えているのだ。可能性の破壊、だがそれが可能性を産む絵画には必要なのだ。


ここに良い山葵と悪い山葵がある。良い山葵はチューブに入れられ、悪い山葵は戸の傍の盛り塩の如く綺麗な山に盛りつけられた。人間はこのふたつの良し悪しを判別できるだろうか。


商品の価値のほぼ全ては宣伝にある。我々は宣伝を介さない限り商品に辿り着けない。商いの品故の定めである。複雑な風味、その刺激。味蕾から生み出される重厚な景色。それら全てを認識するにはまず形骸が欠かせないのだ。


先程の山葵、その前の塩を含めての話に戻ろう。単なる塩に多量の宣伝は必要ない。油絵のような立体さも水彩画のようなアンニュイな側面もないからだ。しかし山葵は違う。繊細さを伝え、他との差別化を図るには宣伝の形が問われるのだ。


僕が社会に出る時、学歴や経験といったものはそういう『宣伝』の部類に入るのだろう。その人間の内面など面接では分からない。企業や契約主はふたつの山葵のうち、山に盛られた山葵を取るだろう。それが鋭く辛く、風味のないものである事等、分かりもせずに。


その点で言えば、塩粒のような人間が素晴らしいと評価できる。しかしそのような人間の底は浅く、人々の調理に欠かせない存在となるが認知されない。自己の存在を確立しようとする者としては辛いものがあるだろう。


僕はフラミンゴ、あの淡さを帯びた岩塩になりたい。塩の実直さ、かつ特色の強さ、特別な刺激ではないが特別であると錯覚させる宣伝の強さ。魅力ある人間というのはそういうものではないか。


天ぷらを食みながらそう考えていた。