車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

甘露

チョコレート、アイスクリーム、ケーキ......甘さが盛りに盛られた食べ物を口にした季節だった。ふと、僕はスーパーのさつま芋の目が止まった。おお、さつま芋か。石焼き芋のような大掛かりな調理は出来ないが、ちょっと食べてみるか。

 

 

思いつきで食べてみたが、さつま芋の美味しさは僕の舌に多幸をもたらした。季節感を忘れたのかと突っ込まれる所、待って欲しい。さつま芋の収穫は確かに9〜11月だ。しかしそこから2ヶ月か3ヶ月それを貯蔵する事で水分が飛び、甘みが増すのだ。今がさつま芋の第2の旬と言える。

美味しい、いやぁ甘みが深く、濃厚な香りが鼻腔に抜ける。美味しい。蒸すのも焼くのもありだが、甘露煮は今の季節に良く合うだろう。あの照り、そして花の蜜のような淡く華やかで芳醇な香り。何より色が好きだ。暗めの橙と鮮やかな紫。足先が冷え、どこか浮ついた重心がその色と香りを楽しむだけでストンと落ちてくる。

 

 

共に飲む物にも気を遣う。ほうじ茶、コーヒー、牛乳。様々試した。調理法によって合う飲み物が変わるのもまた一興。夜の学校を探検している気分だ。あの知っている空間が知らない空間に化けていて、そこを模索するかのような不安と期待、さつま芋の知らない一面を知る度に楽しくなる。

 

 

えーっと、何故さつま芋を熱く語っているのか、まぁ、これは日記ではないが、僕の食に関する興味は他の人間に比べて薄い為、興味を持った時の熱が凄いという事を伝えたいのだ。

 

 

まぁ思いつきで何か行動を起こすのは普段の散歩に良く似ていて、衝動的とは異なった、『閃き』をテイスティングしているような作業で、非常に本能的に世界を楽しめる時間である。炸裂する視界の情報を選別し、気の流れの赴くまま、時には歌い、触れて、確かめる。

 

 

思えば、現代の人間は情報過多社会のせいか可視化されていない情報を汲み取る術に疎くなっている。放たれるジョークの質は下がり、映画のパンフレットには文字が異様に書き込まれ芸術より情報が優先されている。どうしたものか。詩や表現作品が語ってきたあの世界が形骸化していないか。僕は危惧している。いつか人間が、目の前の物しか信じる事が出来ない。形式的パラノイアを患わないかと。

 

 

これは僕の脳裏、思考を文章にして表立ったネットの海に放流しているのであって、結果、この文章がほとんど身内のみで供給され、忘却の地へ旅立ってしまうという現状を憂いている。それが承認欲求に繋がる『こうなれば』である事を僕は認知していて、それを避ける天邪鬼を抱える自分に嫌悪感を示すのもまた人間を拗らせていると言える。

このブログ自体、ひっそりと誰かが望むくらいが身の丈に合っているのだ。何も面白さを求めて書いている訳ではない。僕の脳裏に興味を持ち、次に出る言葉を楽しみにしてくれる、そういった人間が現れるのを僕は願っている。

 

 

冷めたさつま芋も美味いな。甘さが引いた、悲しみの冬ももう終わる。今年も、桜を見に散歩に出かけよう。僕は軽く塩を振り、最後の一切れを食べた。