車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

病気

眠たげな眼を擦り衣を脱ぐ。残る暖かさの膜は解け、冬季の青い空気が肺を貪る。今日の衣が今日の僕を作り上げる。レコードの音飛びのような足音をさせながらバルコニーに向かう。窓に触れるとその冷たさに肌が縮こまる。四肢が温度に敏感なのはこうやって始まりと終わりを感じる為なのだろう。早朝、散歩に出かける。そういう気分なのだ。

 

 

近辺はまだ寝息に包まれ静寂の一色で縁取られている。青い、青い空気だ。淀んだ温かさが肺から吐き出され次々に今日が詰め込まれていく。自動販売機の前に立ちブラックコーヒーを買う事にした。こういったシーンにコーヒーの苦味は良く映える。手が悴み小銭を上手く取り出せない。くそー、単純に寒いんだよ。心地良いが。ゴトンと落ちる音。金を払わないとこの音が聞けないのは至極残念だ。それ程この音は深みのある渋い音なのに。まるでコーヒーだ。戯言の合間にも身体は室内を欲している。

 

 

湯船に身体が慣れるのを待つようにベンチに腰をかける。今身体の安堵する温度は両手に擁された缶コーヒーのみだ。プルタブを引き香りを楽しむ。青さに混ざる渋さ、丁度良いコントラストだ。鳥が囁く。周りは次第に影をつけ始めた。墨汁の一滴が染み渡る真水のように弱くしなやかに味覚は渋みに慣れていく。いつの間にかあの寒さも消えていた。

 

 

つくづく思うが、人間が太陽に趣を覚えるのは何故だろうか。神話、芸術、時間、どれにおいてもだ。空の白き穴、それに惹かれる我々。沸点に近付き高揚していく自分が美に飢えている事を悟る。所詮、僕も美の探求者に過ぎないのだ。何も生まず、何も変えられない事に気付かず、何かをしようとしている。この文字の羅列然り、日常の中で常に何かを探ろうとしている。太陽にすら何か彩れるのではないかと考えてしまうのは最早『病気』でしかない。それも、思考し分析できる人間にしか患えない奇病だ。

 

 

缶が空になると既に出勤する人々が前を通る時間になっていた。重い腰を上げ、家に帰る事にした。散歩は終わりだ。次の散歩は、どこに行こうか。考えようとしたがすぐに諦めがついた。つま先が向く方向、そこに行けばまた何かを探ろうとするだろう。病気と仲良く、仲良く生きなくては。