車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

子羊

僕はこの現状に憂いていた。歩みを進めるに連れて伸し掛かる等身大の死。僕をここまで育ててくれた親は着実に老い、死へと向かっている。否、死へと帰っている。広告やありきたりな歌詞で描かれる事で「生まれてきた事が奇跡だ」というものがある。僕はあれに否定的な目を向けている。運命論者ではないがどうも結果論の押し売りのようで好かない。僕からすれば、生まれてきた事は奇跡というより戦線投入、前線へ駆り出されたものだと思っている。

 

 

捻くれ者と石を投げられても構わないが、こう思うのにも訳がある。僕のこれからの生き方について触れよう。

安寧は素晴らしい事だと思う。その程度にもよるが、日本は比較的それが強い。均衡、平穏、調和。言い方はどうとでもなるが、これは言い換えれば変わらないという事だ。政治にも保守と改革の派閥が存在するが、僕のこの思考はカテゴライズするなら改革に相当するだろう。芸術は均衡の崩れ、縺れ、疑問視、人間の煮えたぎった負の感情の中でこそ輝くものだと考える。

幸せは歩いてこない。歩み寄り皆に新たな価値を見せる芸術では幸せは表現できない。人間の生きる目的として、幸せを勝ち得るにはこちら側が向かって行かなくてはならない。芸術は幸せを体現できないが、見る人を幸せにする事は出来るのだ。

 

 

日本は先進国ではない。世界に誇れるものが時代を追うごとに減っていく。芸術の点で見ても同様だ。破滅的に穏やかなのだ。僕はその穏やかさが無視、不干渉によって出来ている事を知っている。そこを変えたいのだ。もっと観る側が観る人間にならなくてはならない。偽りの平和は抜きにして現状を論じ興じようじゃないか。僕が芸術の道に足を踏み入れたのはそういった志があるからだ。若者らしく、熱弁してみた。

 

 

さて、これが戦線投入とどういった関係があるのかと言うと、奇跡と称して神秘に投げ捨て、現時間軸の自分について思考停止している節がある、という話だ。おいおい、吟遊詩人が突如ロマンにアンチテーゼのムーブを起こすとは気でも違えたかと思われるかもしれない。だが、神秘は完璧だからこそ逃避にうってつけである事は事実である。確かに親がいなければ自分は生まれない。だが果たしてそれは神秘なのだろうか。自分は奇跡の存在とでも言うのか。そこまで奇跡が氾濫しては芸術に価値はないだろう。

 

 

だから待って欲しい。一度考えて欲しい。何故あの人は困っている人に席を譲らないのか。何故騒ぐ人を無視して沈黙を貫くのか。何故若者は社会に関心が薄いのか。

芸術は若者に身近だ。だからこそ、惚けた生に戦う意志を、武器を持たせられる。僕は与えられた。だから、与える人間になりたいのだ。今日は、そういう話だ。