車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

独奏

僕が良く考える事を話そう。
マックナゲットで余ったソース、納豆のカラシ、寿司のわさび。それらが冷蔵庫の奥深くにしまわれた時間の話だ。

誰かには必要とされていて、誰かには不要とされる彼等。消費か埋没のどちらかしか叶わない悲しい存在だ。これは創作作品においても同様である。僕のこのブログが凡作で、ネットの荒野の砂一粒として漂い見つけられないのは埋没の道を辿っているからだ。


だが、消費する人間がいるのも確かだ。この存在が今尚食卓に現れるのはそういった人間に向けてのサービスなのだ。だから、僕は見てくれている人間に向けてサービスを欠かせない。

じゃあ文を簡単にしろよ。
これを僕として、食べてくれないか。


誰もいない街を歩き、小気味良くフィンガースナップを利かせる。孤独を感じない僕の脳には万物を鑑賞する眼があり、それを用いこの景色を非日常に塗り替えてしまう。さて、木の棒でも探そうか。童心ではない。楽しむ事を恐れていないだけなのだ。生きる事に必死になれば、楽しむ隙すらない。悲しい事に、日本は享楽の大切さを認知できていない。


アニメ漫画文化と国が売ろうが、肝心の本国の消費者がこの様では享楽に磨きをかけるのは難しい。演劇や美術に関してもそうだ。もはや、日本は後進国ではない。老朽国だ。文化の遅れも甚だしい。


僕はこういう事を言いたかったわけではないのだ。要するに、皆、楽しむ事に貪欲でなくてはならない。僕はこのブログを書くのを楽しんでいるし、実際楽しさを求め、楽に生きる道を外れ修羅の道を選んだ。後悔はない。楽しければ良い。退屈な時間を微睡むくらいなら死んだ方がマシだ。だから、『何か』があるこの空間で楽しみたい。


手頃な木の棒を見つけた。金属の手すりに打ち付けリズムを刻む。夜の街は人の手が入っているにも関わらず人の気配を見せない。面白い空気だ。適当に鼻歌を囀ずりながら両手に持った木の棒を手すりやブロック塀に打ち付けていく。誰も見る事のない路上ライブだ。
さぁ、愚鈍な道化に拍手を送ってくれ。それに見送られ僕は修羅へ旅立とう。