車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

沈没

開いた単語帳を臍辺りにもたれさせ、車窓から流れるトンネルの黒を眺める高校生。楽器を背負い、厚手のコートの毛玉を取っている。青春とは、一人でも成立しうる。それは、情景が引き起こす輝かしさの魔力でもあり、僕の羨望なのかもしれない。


『うつせみ』は、『空蝉』とも『現身』とも読める。漢字の面白い所だ。片方はセミの脱け殻。虚無、死、解脱を意味する。もう片方は現実の身体。充実、生、存在を意味する。この両極が一つの言葉という枠に入り収まっているのだから不思議なものだ。首を傾げた標識をくぐり、僕は『せいしゅん』の読み方を探していた。
穴の空いた船のように、ゆっくりと僕の身体は重くなる。僕自身の過去は、僕を拒絶する。僕が過去を忘れても、過去は僕を忘れないのだ。


清く、瞬くように過ぎ去るあの時間。だが取り戻す事は叶わない。気付く為の目を潰された僕に勝ち目はないのだ。思えば、僕が一日に笑う量は人よりも多い。しかし、心からの笑いは一つか二つだろう。では普段のものは愛想笑いかというとそうではない。僕の心の笑いは煤けており、他と価値を異にする。それに安定しない。一定に自分を保つ為にはこれが必要なのだ。


『やじろべえが哲学書を読むとバランスを崩してしまう』
これは僕のジョークだ。
まぁ、つまりはそういう事だ。
人の青春というものは大味な感情ともどかしさ、瑞々しさに潜む不器用さで表せる。心から笑える日々、楽しさが僕に足りていれば、多分このブログ自体存在していたかどうか怪しい。


負の遺産なのだ。ここは。僕が闇を抱え、それと向き合い、新たに明日へと歩みを進める。その過程としてこの譜面は同伴している。ここに綴る言葉の読み方を、誰もが理解しているとは思えないが、誰もが理解出来るように書くのも違うと僕は思う。
冬木立。嗚呼、肌が錆びる。人の携帯電話を覗き込むように僕は遠くにそびえるノッポのビル達を眺める。


春が来ても、青くはない。透明で、いつも通りの淡い緑だ。死にたくないと動物達が鳴き、僕はそれに応える事も出来ず、相も変わらず『あい』を探す。