車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

盲目

僕のブログの名前について訊かれた事がある。
『車窓の中で跳ねる五線譜』
響きが気に入っている。これはどういう意味なのか。
端的に言えば、これが表すのは車窓から望んだ電線だ。車窓に流れる電線はゆっくりと上へ下へ跳ねて動いているように見える。その何本かの線が五線譜の配置に見えたのだ。この電線がなければ電車は動かない。運ばれる事が当たり前だと思わないように、地味ながら常に支え続けるこの線に、感謝と尊敬の念を込めているのだ。


電線と言えば、電線を完全に地下に埋める計画が進んでいるらしい。現状を言うと、難航している。どうも日本は地震が多く、海外のように簡単に維持と整備ができないらしい。思えば日本は地震が多過ぎる。震度4で「おぉー揺れたなー」と言っている時点で危機管理のヒューズがイカれているに違いない。


地震が文化となってはいけないが、この辺りは海外の人々との違いを見せつけられる。震度1ですら地が揺れたという事実に激しく動揺する程だ。何でもかんでも「何某大国」と称するのは良くないが、日本は災害の話題については事欠かない災害の国だ。豊かで鮮やかな気候だからこそ地球に起こりうる殆どの災害が起こりうる。全く恐ろしいものだ。しかし同時に興味深い。


我々は地球の癌だ。このままでは地球を滅ぼしかねない。利便性の探求は自然の摂理に反してしまうのだ。僕は自然と共生、エゴである事は否めないが卑下しない事をここに誓おう。虫が苦手な人間が増えてきた気がする。これも文化になってしまうのか。自然を愛する。その概念すら少数になってしまう日が来るのではないか。エゴを抱くならまだしも排斥してしまったら?それに危機感を感じる人間がいなくなったら?盲目まみれだ。


ヴィーガンは過度だ。自己嫌悪とエゴの果てに思える。僕は均衡こそ至高だと思うが、変化がないのは退屈だ。環境を改善したいなら人間の繁栄を抑えねばならない。繁栄を願う人間と環境は相反しているのだ。静かに、静かに暮らせる人間は一握りの純真無垢だ。


呼吸を瞑る。僕は芝生のある公園に来た。ここは人間の手によって作られた箱庭、籠の鳥。それを愛でる事に僕は罪悪感を感じない。所詮、僕は人間の一派なのだ。エゴには勝てない。だが僕は今日も自然を吟じる。今日を生きる同志として。


野菜は食べられる時に自分が砕ける音を聞いているのか。世界は汚されていく中で自分が崩れる音を聞いているのか。我々は分からない。自分ではないからだ。箱庭を整備する癖に、立つ大地を無視するのが人間なのだ。
酷く盲目なのだ。
だから美の光に喉が鳴る。