車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

羽音

両腕を擦りつつ猫背で目覚める旅人。傍らには砂埃で鈍色になった黒猫が丸くなっている。
今日の飯を探さねば。そう思い、重たいローブを握りテントを畳む。朝日は曇った笑みを見せ、もう遠くない夜を感じさせる。湿った土、くぐもった木々、この空の下、旅人は自らと手を繋ぎ明日に祈りを捧げる。黒猫と共に歩む旅路に悲しみはなく、憎むべきは環境であって景色ではない。

 

 

 今、我々はその場で足踏みをしているようで、本当は前進しているのだと述べたい。というのも、心というものは不可視であり不可思議なものだ。そこに生まれるのは想像の余白に演出されたイデアと美学、不安と恐怖だ。それに生産性はなく、ただ”そう感じる”だけなのだ。今我々は行動を起こすべきだが、起こしている行動も見るべきだと考える。感じる事も大切なのだ。行動自体は無味乾燥なもので、そこに感情が介入する事で人間が行った意義が生まれてくるのだから。

自宅に流入する労働、絶え間ない防衛措置、募る解放への思い。夢に飢え、誰かの粗相に対して、いつも以上に苛立っている。僕は今の社会に柔らかさを感じていない。一概に括るのも遣る瀬無いが、今の閉鎖された世界が檻か箱庭か、どう感じるか考えても答えは檻、その意見が強いだろう。だから、祭囃子の甘さが欲しくなる。

 

 

僕はおよそ100年前に同様に一種の病が流行した時代の人々の思いについて調べていた。彼等は現在と変わらず、マスクを求め争っていた。マスクを着用しない者を『命知らず』と称して侮蔑したのだ。とはいえ、この貶しも流行を抑える為である。皆の為、皆の為と思う事で言葉は過激になり、集団心理は毒性を増していくのだ。今も昔もそれは変わらない。文化は変化しても、人間は人間のままなのだ。

 

 

うるさい。虫が飛んでいる。

どこだ。

いない。今は深夜だ。明かりもなく、ただ聴覚だけが虫の存在を誇示してくる。

僕は考えた。

虫は動き、生きているだけだ。その場を飛び、彷徨っているだけだと。

 

 

どうして僕はその虫を『殺す』事しか考えていなかったのか。

 

 

愚かだ。視野が狭まっている。虫と共に、生きる空間があっても良い。吟遊詩人を気取る文ばかりを綴る脳ならば、この空間にも風情やら何やらを感じていてもおかしくはない。

己を鼻で笑い、毛布を被った。芯がじんわりと温まる。眠りにへと、静かに誘われる。

融和が僕を巡り、羽音は消えた。もしかすると、注意の範疇から外れただけかも知れない。それでも僕は満たされていた。あの黒猫が僕の毛布の上で転がり、眠っているような気がした。幻の重みが、温かい。

 

 

今だからこそ、許す余裕を持つ事にしよう。

夜の帳は風に揺れる。朝を待つ、旅人を迎える。