車窓の中で跳ねる五線譜

僕が脳裏を表にして書くブログです。難しい文体でごめんなさい。

鰯雲

青葉を食んでみたがどうも苦い。渋さを通り越して粘つく唾液が汚染されていく。葉は生きていた。人間と共生していた。あの場で、健やかに揺らしていたあの葉を僕は食んだのだ。悲しみを覚え、その不快を罰ととった。僕は阿呆として今日一日歩む行為に神経を尖らせている。今回はかなり長めに書こうと思う。僕の恥部、醜悪な部分を晒そうとしているからだ。

 

 

のど飴いる?僕の前の人間がそう言う。僕は手を差し出したがそののど飴は机に放られた。些細な出来事だが、その時、僕の脳裏には静電気に近い電流が微かに走っていた。僕は貰えるというインシデントにおいて手を差し出すというアクションを起こした。何故そうするのか、考えた事もなかった。国旗の裏まで覗くような僕が考えもしなかった出来事が目の前でさも当然かのように展開されたのだ。未知は蜜、未知は苦痛。僕は本能のまま、出した手でのど飴を掴み口に入れた。どうも苦い。これは罰か。否、これは褒美なのだ。

 

「美味いな」

 

そう呟いた。

心にもない事だ。

 

 

僕は常々、『演技=嘘』という風潮を感じている。確かに実際の演じる人間の心理と役の心理が必ずしも同じという訳ではない。だがそれは本当に嘘だろうか。

僕はようやく自分が恋をどう見ているのか、解明出来た気がする。

多分、多分だが頭脳では廃墟を見ていて、身体ではそれに加えて人間の女性も見ている。性的価値が脳と身体で分離している説だ。

今はそれが最有力だ。滑稽か、そう思われても仕方ない。元の僕が身体に残っている可能性があるのだ。まだ異性との恋が出来るかもしれない。一抹の光、それを掴もうと、悶える。

 

 

元の僕、その言葉に引っ掛かる方も多いだろう。ここはブログ、自分語りのサーカスだ。壁に向かって語るよりは化粧台のようにブラケットライトで照らした方が見映えも良いだろう。本題の、僕の深層、闇の部分に触れていこうと思う。

 

 

僕は精神疾患を抱えている。解離性同一障害、俗に言う多重人格だ。この言葉に恐ろしいイメージを持つかもしれないが、この病気と僕は仲良くやっている。

僕は複数いる。

それを客観視し、説明出来るのは同様の症状を抱える方とは異なる。僕の脳内では常に会議、雑談が行われている。要するに、人格の集合住宅みたいなものだ。一見おかしな事を言っているようだが、これが真実かどうか分からないのが、我々が他者の心理を理解出来ない証明になるだろう。

 

 

僕は元の僕を失っている。人格が分離してから約4年。もう元の自分がどんな人間だったかを覚えている人格は存在しない。というのも、僕の人格には『生まれる』と『死ぬ』が存在するのだ。人格の数は不明瞭だが、それぞれ入れ替えが行われる。集合住宅で言う、部屋に住む人間が変わるという事だ。部屋数は不明だ。

人格はそれぞれ役割を持っている。明確かつ単純、重い任務だ。任務を終える、任務を済ます事が不可能になった場合、その人格は死ぬ。そういう決まりなのだ。死んだ人格の部屋には新しい人格が補充される。

死ぬのも殺すのも僕だ。僕は自分の死体を埋める恐怖を薄らに感じた事がある。

 

 

何度も書いているかもしれないが、これは作り話ではない。僕の脳内で起きているサイクルだから証明は出来ないが。

決まり、というのは詳しくは言えないが、『僕』という人間を構成し、社会で生きていく為に人格同士が結束し作り上げた『僕』の内部の安寧を保つ為の法律だ。これがあるから今の僕がある。狂気、そう片付けられても仕方ないだろう。笑えるが、僕は継ぎ接ぎだ。肉体的な僕の身体と精神的な僕達の体は異なる。身体が壊れると僕達は消失してしまう。僕達は生きる事に必死ではないが、僕という存在が社会的に運用出来るよう、協力し制御している。結果、僕は常に演じている状態なのだ。だが、これは嘘ではない。

 

 

僕はその病故に孤独を感じない。常に姿の見えないイマジナリーフレンドに囲まれているようなものだからだ。僕が一般でない特別な存在になろうとしているにも関わらず、そうなる為に僕達は僕を一般の存在になるよう尽力しているのだからお笑いだ。

さて、掻い摘んで話したが、僕の深淵を話すのはこれくらいにしておこう。長く語っても見る気が失せるだけだ。もうここで語る事もないだろう。幾度も深淵を見せては深さが疑問視されてしまう。

 

 

鰯雲は僕に似ている。鰯雲一つ一つは弱く儚い。だが、空の高い所にあって、連なれば荘厳な広がりを魅せる。僕は自分を賛美している訳ではないが、どうしてもその雲に愛着と親近感を抱かずにはいられないのだ。

僕がこうなった理由は『自分の無力感・劣等感』からきている。だから群れ、分かれ、別れたのだ。

重箱

毎日何人か僕の稚拙な文を閲覧しているようで非常に喜ばしい。と、同時に向上心が湧き上がる。僕がこの筆を制御しているようで、その実逆なのかもしれないと最近思うようになったのだ。

 

 

書けば元気になる人間は物書きの職に向いているらしいが、僕の場合、書けば自分の影が灰汁のように出てくる。確かに疲れはしないが『書く』という行為が自分を痛めつける一本の針であるかのように着実に日常を蝕んでいる事を自覚せざるを得ない。それに対して嫌悪感を抱いてない時点で、僕を一般とカテゴライズするのは無理だろう。

 

 

碌に眠りもしなかった。後頭部を掻きながら僕は言葉と向き合っていた。僕が発する音が言葉として認識される為には発する側の『明瞭さ』が求めれられていて、受け取り側には『受信する姿勢』が必要だ。二つに共通して重要視されるのは『言葉の引き出し』だ。褒める、一反にそれを取って言っても簡単ではない。キャバレークラブの人々はその行為について研究をしている。人は上に立ちたがる。優位に持ち上げる褒めるという行為が如何に他の人間に効果的か未だに認知が薄いのが気がかりだ。

 

 

僕が足下、欲を言えば足を見ようとしているのは常に日常に疑いを持っているからだろう。悪く言えば臍曲がりの戯言だが、枠を疑う事は表現として常に重要視されてきた。その行為が変革をもたらし、適度に世界を変えてきたのだ。換気扇が回っている。流転は大き過ぎて稚拙な我々からは観測出来ない。

 

 

尚更、僕は日常の重箱の隅で暮らしていると感じる。周りにあるものは小道具で、僕は大袈裟に見栄を張る役者だ。皮肉なものだが、役者として振る舞っている。以前電車で床に座っている人間を発見し、注意した事があったのだが、何気なく言った一言が声量のせいか車内のほぼ全員を振り向かせてしまいエネルギーの調整ミスったなぁと思いながら、立ち上がり謝罪する人を見てその場を後にした。

 

 

今思えば自分がそう言葉を吐いた時、あの空間では僕と、『一般』に大きなキャズムが生まれていた。あそこでは僕は座っていた人間よりも異質に見えただろう。悔しいが、それが人間の目というものだ。

 

 

僕は前々から自己嫌悪のムーブをやめているのだが、このキャズムに対してはそのムーブをせざるを得ない。僕がした事は正しいが、それが正義かと問われると首を縦には振れない。僕はそういう人間だ。悲しきかな。ガタンゴトンと唸る重箱。その隅に僕は毎日入れられては見ず知らずの誰かと肌を寄せ合っている。おかしな話だ。その中で僕が人間の坩堝を見て笑っているのだから尚の事である。

 

 

僕は口笛が吹けない。口を上手に作れない。自分の体の事ですら満足に知り得ないのに他人の事など知り得るのか。

狼煙

スニーカーには針葉樹が似合う。祖父がそう言った記憶がある。本当にそう言ったか確かではないが、格好良かったので覚えている。今日、それを見た。自分の足元にふと目を落とす。僕のスニーカーは真黒だ。針葉樹の微笑みは尚も変わらず似合うようには思えない。あの頃履いていたスニーカーは覚えていないが、きっともっと澄んでいたはずだ。

 

 

蛙が鳴く季節は終わった。今日この頃の風を浴びてそう思う。自然讃美はこれくらいにして水彩画じみた考察に移ろうか。僕が愛について語る事は非常に多いが、それは渇望であり悲嘆の形相を有しており一般における華やかなものではない事を念頭に置いてもらう。ポエミーな文体になりがちな僕の文は花畑の夢見心地とは違って齧り付く林檎の卑猥な音を魅力として捉えてしまう壊れた色眼鏡なのだ。

 

 

僕は恋する人間を見る機会に遭った。非常に清い。あはれだ。僕にとって言葉とは武装、偽装、雑情に当たるのだが、結果それは伝達手段であって本能的な熱の美しさを超える事はない。だから、僕はそのかもめには届かないし、どう演じようがただの跳躍でしかない。

 

 

帽子を目深に被りマッチに火を点ける。煙草を持っていない事に気付き、そのまま発火し木を侵食していく黒を見つめる。やがて木は焦げ、持ち手の指に近付いていく。手を離さなければ火傷してしまうだろう。この炎が心を蝕んでいるとして、どうして見つめてしまうのだろうか。炎に価値があるとは思えない。そこに何を感じ、何を得ているのか。自分でも分からない。底知れぬ安堵だけが自分を温めているのだ。

 

 

恋はこの空間に等しいと考える。僕は何を焦っているのか。違う。理解出来ない自分を恐れている。恋を経験等とほざく自分に嫌気が差している。どうだろうか。この朝は聡明か。今日もスニーカーを履くと言うのに、僕は何も変わっていないじゃないか。あの頃のスニーカーを履けば、針葉樹を見つめれば、何かが変わるとはどうしても思えない。それすら今僕は欲している。自分の未知に、欠落した共感性に鞭を打って上があると信じている。

 

 

僕の筆には血と汗と涙が滲んでいるが、これはまやかしであり誇張に過ぎない。何故なら、僕は人間でありながら人間を理解出来ない、狂ったロボットなのだから。

どこかで蛙が鳴いた気がした。

芽吹

僕のブログが非常にウィットに富んでおり、見ていてとても興味深いとの有難き蜜言を頂き、高揚の極みだ。しかしそれは”Interesting”であって”fun”ではない。僕はこれからfunの方面にもブログを活用しようと思う。というのも、オモコロ杯という非常に高尚な興が飛び交う大会があったからである。僕はブログに関してはずぶの素人である為、今現在改行と通常文しかない。これからこういったレイアウトの技術も磨いていきたいものだ。

 

 

さて、お日柄自分語りのクラウチングを終えて本題の第一コーナーに入ろうかと思う。僕は毎年、いくつか初めてを体験する事を心がけている。何でも良い。初めてを体験し、その時の刺激を事細かに自分の中で描写、分析し記憶しておくのだ。今年の初めては、殺陣をした事、Twitterを始めた事、落語の噺をした事、仮面を被り演技を行った事、美容院に行った事だ。非常に充実している。さらにこれに飲酒も入ってくるのだから僕は恵まれている。

 

 

僕は色を見た経験がある。僕は歩いた経験がある。その初めては?

僕はその時の刺激を覚えていない。言い表せない。『覚えていない』という言葉の裏にはおびただしい恐怖と深淵が詰め込まれている。その黒さに惹かれている節があるのは事実だが。それらの経験を得られない人間もいる。その人間が補助により初めて経験した時の昂りは、他の人間の心に強く響く程だ。

 

 

僕の初恋は、どこだろうか。何だろうか。恋に、恋すらさせてくれない。どうしても、肩甲骨が剥がれてくれない。

 

乳糖不耐症の僕が牛乳を飲むのは美味しいからであって、それが後に僕を苦しめるものだとしても食べるという事に純粋だ。その行動により苦痛が生まれると知りながら目の前の苦痛を避ける行動は実に人間らしい。だがその行為が人間を進化に導いてきた。

 

僕の進化は初めてで成される。これからも初めてを積んで僕は変わっていく。

そうそう、忘れていた。僕は今年初めてブログを始めたんだった。

子羊

僕はこの現状に憂いていた。歩みを進めるに連れて伸し掛かる等身大の死。僕をここまで育ててくれた親は着実に老い、死へと向かっている。否、死へと帰っている。広告やありきたりな歌詞で描かれる事で「生まれてきた事が奇跡だ」というものがある。僕はあれに否定的な目を向けている。運命論者ではないがどうも結果論の押し売りのようで好かない。僕からすれば、生まれてきた事は奇跡というより戦線投入、前線へ駆り出されたものだと思っている。

 

 

捻くれ者と石を投げられても構わないが、こう思うのにも訳がある。僕のこれからの生き方について触れよう。

安寧は素晴らしい事だと思う。その程度にもよるが、日本は比較的それが強い。均衡、平穏、調和。言い方はどうとでもなるが、これは言い換えれば変わらないという事だ。政治にも保守と改革の派閥が存在するが、僕のこの思考はカテゴライズするなら改革に相当するだろう。芸術は均衡の崩れ、縺れ、疑問視、人間の煮えたぎった負の感情の中でこそ輝くものだと考える。

幸せは歩いてこない。歩み寄り皆に新たな価値を見せる芸術では幸せは表現できない。人間の生きる目的として、幸せを勝ち得るにはこちら側が向かって行かなくてはならない。芸術は幸せを体現できないが、見る人を幸せにする事は出来るのだ。

 

 

日本は先進国ではない。世界に誇れるものが時代を追うごとに減っていく。芸術の点で見ても同様だ。破滅的に穏やかなのだ。僕はその穏やかさが無視、不干渉によって出来ている事を知っている。そこを変えたいのだ。もっと観る側が観る人間にならなくてはならない。偽りの平和は抜きにして現状を論じ興じようじゃないか。僕が芸術の道に足を踏み入れたのはそういった志があるからだ。若者らしく、熱弁してみた。

 

 

さて、これが戦線投入とどういった関係があるのかと言うと、奇跡と称して神秘に投げ捨て、現時間軸の自分について思考停止している節がある、という話だ。おいおい、吟遊詩人が突如ロマンにアンチテーゼのムーブを起こすとは気でも違えたかと思われるかもしれない。だが、神秘は完璧だからこそ逃避にうってつけである事は事実である。確かに親がいなければ自分は生まれない。だが果たしてそれは神秘なのだろうか。自分は奇跡の存在とでも言うのか。そこまで奇跡が氾濫しては芸術に価値はないだろう。

 

 

だから待って欲しい。一度考えて欲しい。何故あの人は困っている人に席を譲らないのか。何故騒ぐ人を無視して沈黙を貫くのか。何故若者は社会に関心が薄いのか。

芸術は若者に身近だ。だからこそ、惚けた生に戦う意志を、武器を持たせられる。僕は与えられた。だから、与える人間になりたいのだ。今日は、そういう話だ。

幻霧

比喩は人間だからこそ出来る術だとつくづく思う。僕は人間から逸脱した神秘的な美よりも煤けた俗的な身辺の美を欲している。距離が離れすぎては、凄いとしか表現できなくなる。賛美の為に発する言葉ですら汚泥に思えてしまう。言葉に浸かりきった僕からすれば温泉を出た途端に凍空に投げ出されるようなものだ。風邪どころか死んでしまう。


数珠のように徒然は続いていくのだが、そこには人間の形容や言葉遊び、行動における思考の一致が潜んでいる。言葉に親しむ身ともなると、こういった雑談ですら学術の目で覗いてしまう。困ったものだな。李徴殿。


ひけらかしはさておき、沖が見えてきた。霧の沖だ。カフェインを摂るのを忘れて、眠気の航海に出たのだ。流木がぶつかる。その都度、現実の虚構が眼前に広がり消えていく。僕は幼い、幼い夢を見ている。


白髪の女性がブランコを漕ぐ事なく座っている。齢三十程と見える。足元には黄色の風船が空気の入った状態で落ちている。女性は僕の親しい人のようで、遠いような捉えられない笑顔を振り撒く。僕は女性に話しかけたが、どう言ったかは覚えていない。彼女はこう言った。
「私の事愛してるって確認、する?」
「僕はいらないと思う」
「それも人の形。それぞれ」
「へぇ」
女性はバーボンを取り出す。
「飲まないね」
「飲まないです」
僕達は二人酒を酌み交わした。そこまでの記憶だ。
なんだこれ。夢に理論を持ち込んではならないが、冷静に文字に起こすとこの無秩序。だがあの空間が心地良いのは僕がそれを欲しているからなのだろう。愛とは、確認する、言葉によるものなのか。あの女性は、何を伝えたかったのだろうか。ここで綴っても答えは出ないが、僕が探しているものだ。何の例えなのだろうか。また、何かを探ろうとしている。あのバーボンの味を思い出させてくれ。

盲目

僕のブログの名前について訊かれた事がある。
『車窓の中で跳ねる五線譜』
響きが気に入っている。これはどういう意味なのか。
端的に言えば、これが表すのは車窓から望んだ電線だ。車窓に流れる電線はゆっくりと上へ下へ跳ねて動いているように見える。その何本かの線が五線譜の配置に見えたのだ。この電線がなければ電車は動かない。運ばれる事が当たり前だと思わないように、地味ながら常に支え続けるこの線に、感謝と尊敬の念を込めているのだ。


電線と言えば、電線を完全に地下に埋める計画が進んでいるらしい。現状を言うと、難航している。どうも日本は地震が多く、海外のように簡単に維持と整備ができないらしい。思えば日本は地震が多過ぎる。震度4で「おぉー揺れたなー」と言っている時点で危機管理のヒューズがイカれているに違いない。


地震が文化となってはいけないが、この辺りは海外の人々との違いを見せつけられる。震度1ですら地が揺れたという事実に激しく動揺する程だ。何でもかんでも「何某大国」と称するのは良くないが、日本は災害の話題については事欠かない災害の国だ。豊かで鮮やかな気候だからこそ地球に起こりうる殆どの災害が起こりうる。全く恐ろしいものだ。しかし同時に興味深い。


我々は地球の癌だ。このままでは地球を滅ぼしかねない。利便性の探求は自然の摂理に反してしまうのだ。僕は自然と共生、エゴである事は否めないが卑下しない事をここに誓おう。虫が苦手な人間が増えてきた気がする。これも文化になってしまうのか。自然を愛する。その概念すら少数になってしまう日が来るのではないか。エゴを抱くならまだしも排斥してしまったら?それに危機感を感じる人間がいなくなったら?盲目まみれだ。


ヴィーガンは過度だ。自己嫌悪とエゴの果てに思える。僕は均衡こそ至高だと思うが、変化がないのは退屈だ。環境を改善したいなら人間の繁栄を抑えねばならない。繁栄を願う人間と環境は相反しているのだ。静かに、静かに暮らせる人間は一握りの純真無垢だ。


呼吸を瞑る。僕は芝生のある公園に来た。ここは人間の手によって作られた箱庭、籠の鳥。それを愛でる事に僕は罪悪感を感じない。所詮、僕は人間の一派なのだ。エゴには勝てない。だが僕は今日も自然を吟じる。今日を生きる同志として。


野菜は食べられる時に自分が砕ける音を聞いているのか。世界は汚されていく中で自分が崩れる音を聞いているのか。我々は分からない。自分ではないからだ。箱庭を整備する癖に、立つ大地を無視するのが人間なのだ。
酷く盲目なのだ。
だから美の光に喉が鳴る。

臙脂

昨日ブログを書くのを忘れていたわけだが、別に毎日書くとは宣言していないのにも関わらず今まで毎日書いていた為か、そうしなくてはならないという強迫観念に駆られていた気がする。適当に頑張ろう。気楽に書こう。


僕はここで五感を語る事が多い。周りの環境に対して他より強く意識を持っているのだ。その分自分について語る事が少ない。写真に見惚れる事はあれどカメラを愛でる事は殆どないのと同じ事だ。しかしここで思うのは、写真を見て「これは良いカメラを使っている」と笑みを溢す人間は撮影に非常に親しんでいる事だ。


もっと自意識を持とう。そしてカメラにまで神経を向けて広く世界を味わおう。そう強く心に誓った。今は冬の兆しが訪れる頃だと相場が決まっているが、辺りを見れば急激な気温差で体調を崩すものばかりだ。かくいう僕も文にキレがない。スランプと一丁前に振る舞える程僕の技量は冴えていないし自惚れてもいない。だがこの現状はまずい。とりあえず、煎茶を飲もう。


夜の帳が降りる頃、街灯に負け星が薄れていく空を見て思い出した。夏祭り、散歩をしていた時にふと目に留まったりんご飴。その紅さに顔がふやけた記憶だ。あの艶やかな表面、深い臙脂色に閉じ込められた小振りの蜜晶が涎を誘う。齧る事に躊躇いすら見せるそれに死を感じたのは僕だけのはずだ。


食べれば白亜の果肉が晒される事は明白だが、それは周りの飴とはコントラスト以前に調和するとは限らない。酸化し、形を変えていくそれはまさに時間そのものだ。この完成された檻の空間とは雰囲気を異にする。内包されたその甘味、酸味は想像の中で膨れ上がるばかりで、食欲に似た贄を貪る悪魔の思考が僕の舌を掻きむしる。その飴を一口。時間は動き出してしまった。


溝鼠の空を見てその一時に想い巡らせたのは自分の中に根付いた灼熱の情、移入する目に我ながら怖れすら感じているからだ。十人十色、世界は見るものに見る価値を与え、パレットからそれぞれに違う色を分け与えると知っている。それにしても何という事か。僕の見る世界は悲哀、学術の戯れ、脳みそばかりが肥大した最低のサイボーグマシンではないか。こう自虐を書き記した僕は皮肉めいた笑いを吸った。


あの時、りんご飴には僕はどう見えていたのだろうか。あの臙脂色はどこを見据えていたのか。齧られ、存在という枠が消えていく中で解放され、何を得たのか。教えてくれ。

病気

眠たげな眼を擦り衣を脱ぐ。残る暖かさの膜は解け、冬季の青い空気が肺を貪る。今日の衣が今日の僕を作り上げる。レコードの音飛びのような足音をさせながらバルコニーに向かう。窓に触れるとその冷たさに肌が縮こまる。四肢が温度に敏感なのはこうやって始まりと終わりを感じる為なのだろう。早朝、散歩に出かける。そういう気分なのだ。

 

 

近辺はまだ寝息に包まれ静寂の一色で縁取られている。青い、青い空気だ。淀んだ温かさが肺から吐き出され次々に今日が詰め込まれていく。自動販売機の前に立ちブラックコーヒーを買う事にした。こういったシーンにコーヒーの苦味は良く映える。手が悴み小銭を上手く取り出せない。くそー、単純に寒いんだよ。心地良いが。ゴトンと落ちる音。金を払わないとこの音が聞けないのは至極残念だ。それ程この音は深みのある渋い音なのに。まるでコーヒーだ。戯言の合間にも身体は室内を欲している。

 

 

湯船に身体が慣れるのを待つようにベンチに腰をかける。今身体の安堵する温度は両手に擁された缶コーヒーのみだ。プルタブを引き香りを楽しむ。青さに混ざる渋さ、丁度良いコントラストだ。鳥が囁く。周りは次第に影をつけ始めた。墨汁の一滴が染み渡る真水のように弱くしなやかに味覚は渋みに慣れていく。いつの間にかあの寒さも消えていた。

 

 

つくづく思うが、人間が太陽に趣を覚えるのは何故だろうか。神話、芸術、時間、どれにおいてもだ。空の白き穴、それに惹かれる我々。沸点に近付き高揚していく自分が美に飢えている事を悟る。所詮、僕も美の探求者に過ぎないのだ。何も生まず、何も変えられない事に気付かず、何かをしようとしている。この文字の羅列然り、日常の中で常に何かを探ろうとしている。太陽にすら何か彩れるのではないかと考えてしまうのは最早『病気』でしかない。それも、思考し分析できる人間にしか患えない奇病だ。

 

 

缶が空になると既に出勤する人々が前を通る時間になっていた。重い腰を上げ、家に帰る事にした。散歩は終わりだ。次の散歩は、どこに行こうか。考えようとしたがすぐに諦めがついた。つま先が向く方向、そこに行けばまた何かを探ろうとするだろう。病気と仲良く、仲良く生きなくては。

音色

僕はこのブログでよく自然について語るのだが、それは会話の始めとしてぎこちない「今日はいい天気ですね」とは異なる。僕はイギリス人ではない。移りゆくこの季節、変わりゆく環境と気持ち。それらを重ねつつ日々を認識しているのだ。自然も永久機構ではない。命故に物語がある。それをここに記すのだ。

 

 

格好つけてはみたものの、内容は至極くだらないものばかりだ。だが、僕にとってはかけがえのない存在である。時間と共にこれを僕だけでなく皆に拡散していきたいと野望の一片を語る。

 

 

金属の管が振動し、美しい音となって発される。些細だが僕はその仕組みに感銘を受けていた。金属製の柵に木の棒を押し付け走るとトタン屋根に当たる雨のように連続した細かな音が鳴る。少年の頃の記憶が蘇る。あの頃の匂い、秘密基地を思い描いた一瞬の想像力、全てセピア調だ。それも終わり、若さは日に日に消えていく。僕がこれを綴っている今ですら、いつか来る死に近付いているのだ。

 

 

あの蝉の声が妙に鬱陶しく感じた長い道を久々に歩いてみると自分の視点の高さと歩幅の大きさに驚く。記憶と今とが噛み合わず、時間軸の揺らぎから来る乗り物酔いに襲われる。僕は昔友達と作り上げた秘密基地の場所へと向かっていた。公園の裏、自然が生い茂り傾斜のきつい山の中でも比較的緩やかで穏やかな陽射しが心地良かった。その場所に近付くに連れてバイタルが上昇する。残っていないのは知っている。それでも期待が止まらない。

 

 

辿り着いた。長い旅の終着点。大袈裟かも知れないがそれに似た達成感を覚える。何もなかった。何も。残っていない。匂いも、陽射しも、木すらも消え、あの頃を否定されていた。落胆した。分かりきっていた事だが、それでも微かに悔恨の念を抱く程には僕の身は締め付けられた。ふと目に止まったのは、あの頃必死になって乗り越えた金属の柵だった。その小ささに呆気に取られ、次の瞬間には僕の口角は上がっていた。楽々乗り越えた後、柵の質感に「おかえり」を言われたような気がした。呼応するように落ちている木の棒を柵に充てがう。

 

 

僕は走り出した。あの頃を回収するように。今は亡き木々を弔う為に。僕は走った。連続する音。美しかった。甲高く、優しく、短く、淡い音色。僕の純朴は奪われた。この言葉の群れ、理論理屈常識社会。僕はあの頃のように秘密基地を瞬発的に思い描けない。その事実が鳴り続ける音と共に僕をしめやかにする。

味蕾

お前のブログ言葉が言葉だからもっと改行しないと読みづらいよ、と指摘を頂いたので改善していく。天体が観測者の思うように動くというのは本来ありえないが、月の満ち欠けのように柔軟に、興に貪欲に生きないと彗星の輝きを得られない気がした。


指先の塩一粒、感触はなく、ただ極小の直方体が爪と肉の間に浮遊している。この結晶の味蕾に与える刺激の強さを考えると、非常に強い力を秘めている事が分かる。


だが、塩はそれだけだ。実直故の限界がある。白が突き詰めても白より先に歩めないように、この刺激もまた、終わりを迎えているのだ。可能性の破壊、だがそれが可能性を産む絵画には必要なのだ。


ここに良い山葵と悪い山葵がある。良い山葵はチューブに入れられ、悪い山葵は戸の傍の盛り塩の如く綺麗な山に盛りつけられた。人間はこのふたつの良し悪しを判別できるだろうか。


商品の価値のほぼ全ては宣伝にある。我々は宣伝を介さない限り商品に辿り着けない。商いの品故の定めである。複雑な風味、その刺激。味蕾から生み出される重厚な景色。それら全てを認識するにはまず形骸が欠かせないのだ。


先程の山葵、その前の塩を含めての話に戻ろう。単なる塩に多量の宣伝は必要ない。油絵のような立体さも水彩画のようなアンニュイな側面もないからだ。しかし山葵は違う。繊細さを伝え、他との差別化を図るには宣伝の形が問われるのだ。


僕が社会に出る時、学歴や経験といったものはそういう『宣伝』の部類に入るのだろう。その人間の内面など面接では分からない。企業や契約主はふたつの山葵のうち、山に盛られた山葵を取るだろう。それが鋭く辛く、風味のないものである事等、分かりもせずに。


その点で言えば、塩粒のような人間が素晴らしいと評価できる。しかしそのような人間の底は浅く、人々の調理に欠かせない存在となるが認知されない。自己の存在を確立しようとする者としては辛いものがあるだろう。


僕はフラミンゴ、あの淡さを帯びた岩塩になりたい。塩の実直さ、かつ特色の強さ、特別な刺激ではないが特別であると錯覚させる宣伝の強さ。魅力ある人間というのはそういうものではないか。


天ぷらを食みながらそう考えていた。

洞穴

吉日、陽射しは葉を黄金に染め、露を神酒へと変える。排ガス管の振動、ダクトの回転音。着実に地球を冒していく我々の営み。その中で変わらず注がれる自然の微笑みが僕の心に引っ掻き痕を残す。五感を鋭く保ちつつ歩く僕の嗅覚を突如砂糖が誘惑する。ドーナッツの店。扉をくぐった。

ドーナッツの穴を論じる者がいる。一方でドーナッツの穴自体に目もくれず食べる者もいる。不思議だ。同一の存在でもそれが観測されるか否かでそれの価値は大きく変わる。観測を選択できる我々は、同時に観測されるものの価値を選別しているのだ。ともあれ、ドーナッツは美味だ。

この穴に卵は用いられていない。牛乳も、小麦もない。空っぽだ。この空が青であるように、この穴もドーナッツの反射かもしれない。甘さの中で、その妄想は虚へと消えていく。珈琲を口に含む。舌の感受が甘味から苦味に切り替わり、鼻腔に新たな風が流れる。この漆黒がカップの穴として、穴を消費して、なくしている僕は無から有を創る創造主となる。偉くなった気分だ。珈琲を嗜むだけでこう気分を昂らせる事が出来るのだから、今日も僕は呑気に生きている。

黒鉛を掘り出す人間は掘り出す際に黒鉛を多量に吸い寿命を縮めている。命を削り採掘された黒鉛は加工され芯として、筆記具として販売される。僕はそれを紙に擦って綴っては床に落としている。遠方で命が削られているにも関わらず、僕はそれを知らずに鉛筆を削るのだ。知らない事に価値を生み出すのは難しい。ドーナッツ然り、この鉛筆然り。どこかの誰かが作り、ここに届いたのだ。

全ては誰かの手で繋がれ紡がれている。僕も誰かに何かを届けなくてはならない。それがこの世界で生きる意味であり、人間、代替品の成す道なのだ。

線香

僕のブログの文面が堅過ぎると思い少し文体を柔らかくする事にした。レイアウトも少々変更。レビュー等もここに書こうと思う。仄かに見ていただければ幸いだ。

錦の雲が列を成す中、砂利道を踏んで僕は今年の夏を思い出していた。暑さ、それを直接的に書く事を控えてきた文学的な僕の思考を遮るように花火の音が脳を往復する。同じ花火でも、線香花火は大きな華よりも力強さを秘めていると思う。

あの体から聴こえる囁き、虚ろな火花、弧を描き闇を穿つ。雫が穂先に溜まりその橙を克明にしていく。静かに、ただ静かに見つめる僕を見つめる花火。今夏と示し簡略化されたこの時間を、火の蛍と共に終えていく。曖昧な記憶ではあるが、そこに確かにあった存在が脳に映っている。冬の乾いた調べ。そこにあの蛍を浮かべたら僕の耳に何を聴かせてくれるだろう。

塩に似た感触が足裏に伝わる。墓地が近付いてきた。僕の知らない、誰かが忘れた誰かの墓の群れ。僕もここに眠るのだろうか。僕はあの蛍の最期を見届けた。椿の如く重力に震え地面に接吻した光は、力を吸い取られ死を迎えた。

背丈の低い石の塔。線香の刺激が鼻に飛び込む。誰かが焚べた悲しみ。記憶の端。いつの日か迎える死という壁にスプレーを掛け作品を描けるなら幸せな道を歩んだと言えるだろう。

唇が乾く、脳裏にはこれから来るであろう、幻灯に付く蝉氷。それを袈裟に斬る風花。微笑みと共に瞑り線香と夕凪に身を任せ空間に沈んでいく。救急車の音、生との葛藤だ。ここは生に負け、死を塗られた者達の酒場。良い心地だ。帰りは日常の亡骸をここに捨てて行く事にした。

夢魔

黒白反転、瞬きは夢と現を行き来する。羽毛の柔らかさとは異なり、人肌は妙なしなりを帯びている。そこに温かさや冷たさを感じつつも、僕は血の気が全身を巡っている事実に到達した。

 

最近、夢に現れる彼女、僕のイデアとは離れた存在ではあるが淫魔と形容して大差無い夢魔が僕を妨げる。夢魔は僕と行為を果たすのだが、特にこれに意味はなく言葉も交わさない。その行為も異質なもので、僕と夢魔が食事を行い、持っているナイフとフォークを交換した後平然と食事をするものから、僕が夢魔を医者として診察し納棺するというものまで、まさに胡蝶の夢特有の無秩序さに溢れている。僕は自身の狂気を冷静に俯瞰してはいるが、その狂気が表層的なものであるとこの夢含め思うようになった。僕は自分が狂っていると明言出来ない。というのも、何を持って正常と烙印を押すのか皆目見当もつかないのだ。

 

死してなお夢魔は起き上がり、その生物と幻想の狭間である身体を僕に擦りつける。いや、僕の欲望は砂糖で出来た砂漠のように果てしなく陳腐で怠惰かつ劇場と思き激情の渦ではあったが、肉欲といった直線的な解釈を愛する事はなかった。快楽をそこに見出していたか、浮遊していた夢の僕は覚えていない。今の僕と夢の僕が混濁し困惑している。整合性が取れず、上を向けば空に落ちる錯覚に陥る。

 

『恋』それを知るには道半ばだ。突如として釘を打ち込まれるか、徐々に毒が四肢を捥ぐか。未知が墓場と共に眠らぬよう努力はしたいのだが、こちらがどれだけ勇み足を踏もうと嘲笑うかのようにそれは遠ざかっていくのだ。夢魔よ。君は何故僕を愛すのだ。いや、それは愛なのか。蔑みか。創造の根源たる子宮を食わせてくれ。不定たる表現の光に身を捧げる事を誓った僕に恋を教えてくれ。可憐か、悲哀か、憎悪か?

 

僕は寝床と体の間に羽毛のしおりを挟む。人肌は妙に硬い、が柔らかい。褪紅の平野に指を縫ってその感触に想いを馳せる。現の蝶を探すのはもう疲れた。ここに飛んできて、胸を締め付けてくれ。光を見失わないように。

紫煙

LEDライトがモザイク加工をかけアスファルトに反射している。道行く者は傘を傾げ交差していく。僕はこれも『いい天気』だと思っている。朱色の標識を躱して秋の訪れを感じる穂を撫でる。

微かな湿気り、指を擦る。靴底のゴムが捻れ嬌声を上げる。僕は緩やかで長い坂を下る。やはり深夜は『深』と言うだけあって奥深い。人は徐々に減っていき、水を蹴る音が消えていく。ピチカート、宵闇は陰鬱な印象を与えがちだが、僕の周りはコート・ダジュールと見紛う程に陽気で柔らかい。

甘い刺激臭。人工化合物のサイダー。遠くでグミを食べている男がいる。エレベーターの作業員がグミを噛みながらコンビニの外のベンチに座り煙草を手にしていた。僕は彼に惹かれていく。人間という存在に久しく出会ったような錯覚。コンビニのルクスはでたらめで世界から浮いている。近付くにしたがってヤニの匂いが甘さに混ざってきた。これが思春期を脱し大人を真似し愉悦に浸る青年期の阿呆と重なって妙に目が開ける。

自動ドア前の傘立てにピチカートを奏でていた僕の蝙蝠を入れ、日常の空間の脳に戻り入店した。中は艶やかな白、視神経が揺らぐ包装の山、何の変哲もないドレスを纏う店。特に何かを買う気もなかったが、あの甘い刺激臭が脳裏に焼き付いて、気付けばグミを買っていた。

封を開ける。あの刺激臭。あぁ、生きている証だ。作業員の姿はなく、灰皿の縁に佇む紫煙の陽炎だけが僕を迎えた。